株式会社R2 CREATIVE
華やかなステージのその先へ。安室奈美恵の振付家RYON・RYONが語る、スタジオ設立で目指すこと。
2025年11月17日
安室奈美恵や倖田來未、モーニング娘。など、
数多くのアーティストを支え、日本のダンスシーンを牽引してきた
振付家 RYON・RYONこと野村涼子。
その彼女が、東京・世田谷でダンススタジオを持つ決意をした。
表現者として、そして育成者として――
スタジオ設立から1年が経ったいま、
野村が、自らのスタジオに込める想いを語る。
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第1章 憧れが育てた「自己表現の芽」
――最初に「表現すること」に惹かれたのは、どんなきっかけからだったのでしょうか。
野村: 一番最初の記憶は、兄の幼稚園の発表会です。2~3歳の頃、親子で観に行っていたのですが、気づいたらハイハイでステージの方に出ていってしまって。会場がどっと笑い、母が慌てて追いかけてきた――その情景はいまでも覚えています。もしかしたら、あの瞬間に“人前に出る快感”のようなものを感じたのかもしれません。
その少し前から、母に抱かれてNHKの公開収録や松竹歌劇団(SKD)を観に行っていました。光を浴びた人たちの姿を見ながら、漠然とですが、“あのステージに立ちたい”という衝動が、幼い頃からずっとあったように思います。
――小学生になると、実際に「表現する世界」にどんどん惹かれていったそうですね。
野村: はい。4歳からバレエを習っていて、ピアノや習字、そろばんなど、いくつもの習い事を掛け持ちしていました。体を動かすのも大好きで、運動神経もよかったので、ポートボールやソフトボール、バトミントンでも活躍していました。いつもどこかで“見られている”環境にいて、それが楽しかったんです。
ちょうど世の中はピンク・レディーのダンスブーム。テレビを見ながら友達と歌って踊るのが日常でした。雑誌の付録に振り付けの図解がついていて、それを見ながら完コピして。当時の世の中には芸能人は“別世界の人”という感覚があったけれど、私はテレビの中の人の動きや表情を投影するのが得意で、自然に取り込める感覚がありました。
そんな日々の中で、“テレビの中に映る世界に入ってみたい”という思いが、はっきり自分の中に根づいていったように思います。
小学生の時、読んでいたファッション誌に書いてあった劇団の募集要項を見て、母に恥ずかしながら「劇団に入ってみたい」とさりげなく言ってみたことがありました。でも返ってきた言葉は、「えっ、テレビにでたいの?」。時代の風潮的にも、あまり真剣味がなく少し茶化すような反応でした。
この一言が、幼心には夢への蓋となりました。
それでも――
漠然とステージに自分が立っている未来を夢見ていました。
そんな中、私の表現欲やエネルギーを受け止めてくれたのがスポーツでした。元々幼稚園からクラシックピアノを習っていた影響で吹奏楽部に入り、それ以外にもリレーの選手、バドミントン、ポートボール、ソフトボールなどスポーツ全般にも取り組んでいました。選手として脚光を浴びながら、学級委員などにも手を挙げ、自然と前に立つ存在でした。
母の言葉以来、夢を隠すようになってしまったけれど、 “人前に立ちたい気持ち”の炎だけは消えなかった。そのエネルギーの行き場が、その時はスポーツだったんだと思います。
――中学ではバスケットボール部に所属していたそうですね。
野村: はい。伝統のある公立の強豪チームで、1年生からほぼ毎日練習漬けでした。顧問の先生も先輩もとても厳しく、2時間の説教なんて当たり前。 でも、私は指導を受けている時間さえ苦ではなかったんです。「期待されている証」と思えたから。
父が男子校の体育教師で、厳しい指導の現場を日常的に見ていた影響も大きかったと思います。 「怒られる=否定」ではなく、「成長してほしいというサイン」として受け取る感覚が自然に身についていました。試合では、注目される瞬間のスリル、期待を超えるプレーができたときの高揚感がたまらなかった。 そこに毎日のモチベーションがありました。
──中2でキャプテンに。弱さを“変えた”経験
野村:本格的に変わり始めたのは、中学2年でキャプテンを任された頃です。仲間がミスをしても、なぜかキャプテンの私が呼ばれて叱られることもありました。最初は悔しいし、理不尽だと思ったけれど、ある日ふと気づいたんです。
「これは、“私の弱さ”を見られているんだ」と。
そこから何倍も努力をしました。 “誰のせいか”を探すのではなく、キャプテンとして何を変えるべきかを考えるようになった。すると不思議と、先生や周囲の態度も信頼へと変わっていったように思います。
「自分が変われば、状況は変わる」
“強さを手にした” と実感できたエピソードです。
──チームとしても、さまざまな壁があったそうですね。
野村:はい。練習の厳しさもあり、最初30人いた部員が辞めていき、最終的に 7人だけ になりました。途中、練習のボイコットが起きかけたこともありましたが、キャプテンとして、「ここで折れたら終わる。もう一度、全員で前を向こう」と声をかけ、みんなで持ち直しました。その結果、代々木体育館で行われた新人戦の都大会では東京都ベスト4 に進出できました。
──特に印象に残っている試合はありますか?
野村:一番衝撃的だったのは、小学生のときの友人と再会した試合です。当時よく一緒に遊び、同じようなレベルでバスケをしていた子が、別の学校に進学していました。私の学校は強豪校。試合が始まると、結果は 100対6 の圧勝でした。
その瞬間、はっきりと思ったんです。「環境で、こんなに差がつくんだ」と。
努力も才能ももちろん大事だけど、どんな環境に身を置くか、誰を“師”にするかで人生は変わる。 この確信は、その後の私の教育観の根幹にもつながっています。
──その経験が、今の指導にどうつながっていますか。
野村:バスケ部で学んだことは、そのまま今の私の哲学です。
・環境が人を育てる
・意識が変われば、チームが変わる
・本気で向き合う姿勢こそが内に秘めた力を開花させる
キャプテンとして逃げずに向き合ったあの時期が、今、子どもたちの“可能性を開かせる”ときに立ち返る基準になっています。
第2章 劣等感の先にあった「本当の表現」
――高校時代、再びダンスにのめり込んだそうですね。
野村: はい。中学で燃え尽きてしばらくは帰宅部でしたが、友人がダンスを始めたのを見て再び火がつきました。 当時、マイケル・ジャクソンの活動が盛んになっているころで、マイケルのビデオをすり切れるほど巻き戻しながら動きを研究していました。
家族でディズニーランドに行ったときに観た『キャプテンEO』を今でも鮮明に覚えています。 3Dメガネ越しに見るマイケルのパフォーマンスに衝撃を受けました。まるで同じ空間で一緒に踊っているようで、「これが本物のステージなんだ」と心が震えた記憶があります。
家にはマイケルやマドンナのダンス雑誌やビデオが山のようにありました。学校から帰ると真っ先にビデオをつけ、「どうしてこの動きがこんなにかっこいいのか」「何が違うのか」をひたすら観察していました。
――マイケルの映像を“研究”していたと。
野村: そうなんです。当時はマイケルのダンサーオーディションのメイキング映像なんかもあって、マイケルとディレクターが「何番」「あの子がいい」と次々に選んでいく。そのシーンを食い入るように見ていました。
「全員が上手いのに、なぜ?」
と十代の私は、本場のエンターテイメントというシビアな世界を希望と不安の入り混じったまなざしで見つめていました。PVで仕上がった映像を見ても違いは説明できないけれど、作品が“最高”であることだけははっきり伝わる。その感覚に衝撃を受けて、「私もいつか“選ばれる人”になりたい」と強く思うようになりました。
“何がその差を生むのか”を知りたくて、次の作品が出るたびにアメリカの友人からビデオを見せてもらい、何度も何度も再生していました。まだYouTubeなんてない時代で、情報も映像も簡単には手に入らなかったのです。「次のアルバムはどんな作品なんだろう」「どんな髪型で、どんな動きをするんだろう」って。それが毎回ワクワクして仕方ありませんでした。
――その“観察の目”が、のちの振付家としての原点にもなっている気がしますね。
野村: そうかもしれません。私にとって、マイケルやジャネットの作品はエンターテインメントという世界への憧れでした。 かっこよさを感覚で味わうだけじゃなくて、どうすればその「かっこよさ」が成立するのかを理解したくてたまらなかった。
その時にマイケルの作品で振り付けとダンスを担当していたのが、「ジェイミー・キング」という人物だったんです。
――ジェイミーとの出会いが、いよいよ現実のものになったんですね。
野村: 実は伏線のような出来事がありました。マイケル・ジャクソンの東京ドーム初公演を観に行ったとき、ステージ上でひときわ目立つ動きをしていたダンサーがジェイミーでした。あまりにも衝撃的で、手に持っていたコーラがこぼれるほど気を取られ、目が離せなかったんです。
その数日後、通っていたダンススタジオの壁に、
「ジェイミー・キング来日」
という貼り紙を見た瞬間、“わーっ”と心が躍ったのを覚えています。
最初のレッスンは5~6名ほどだったと思います。初めて彼の動きを目の前で観たとき――もう衝撃でした。動きのキレ、音の取り方、空気の支配、何もかもが違っていて。それでいてセクシー。隣で踊るなんて無理だと思うくらい、ただただ観入ってしまいました。
当時はスマホもなかったので、“録画するように”目で焼き付けるしかない。瞬きするのも惜しいほどでした。
ジェイミーが日本に滞在していた約3週間は、毎日レッスンを受けに通いました。周囲で車を持っていたのが私だけだったこともあり、よく一緒にドライブにも行きました。 車の中でマドンナのCDをかけながら、これまでの仕事の話や、次の作品の思いついたアイデアを話していました。世界のエンターテインメントを創る人の“構想している瞬間”を、隣で観ることができた―― あれは、人生でも私にとって特別な瞬間でした。
「この人はすごい!この人のようになりたい」と心の底から思ったんです。マドンナも、マイケルも、ジャネットも、プリンスも――当時のトップアーティストのステージを全部出演し、振り付けしていたのが彼だった。エンターテイメントの世界を創り出している“本物のエネルギー”を肌で感じた最初の瞬間でした。
――「次のステージ」を求めてニューヨーク、ロスへ渡られたそうですね。
野村: はい。「今の自分にはない表現を得たい」と模索していました。日本では“控えめ”や“和を乱さない”が美徳。その日本人としての私自身のDNAみたいなものが足かせになっていると感じたからです。自分自身のアイデンティティを破ってみたい。そう思って、働いてお金を貯めながら、自力でニューヨークへ繰り返し渡りました。
最初の頃は、英語もよくわからなかったし、レッスンに出ても評価されない。東洋人としての体形にもコンプレックスを感じ、悔しくて無言で帰る日も多くて。帰り道のショーウィンドウに映る自分を見ながら「今日も悔しかった。でも絶対、明日はやるぞ!」そうつぶやいていました。
不思議なんですけど、 自分に微かな希望は抱いていました。小さいけれど光は見えている…みたいな。だから、毎日くすぶっていても絶望はしていなかった。
「何が違うんだろうなぁ?」
「何を破ればいいんだろう?」
いつも自分を客観的に観測するように努力しながら、この時間だけは無駄にしない、と心に決めていました。
――現地の文化を取り入れていく中で、何かが少しずつ変わっていった。
野村:ある日、突然「髪をブレイズしよう」と思い立って、ハーレムに向かったんです。当時の125丁目は黒人街で、駅を降りた途端、全身に視線が集まるのを感じました。まずは髪の毛を売っている店を探し、似合いそうな毛束を購入。 店の人が「ここで編んでもらえるよ」と教えてくれた場所へ向かうと、道端で立ち話をしていた女性が手招きしてくれて、不安ながらもそのままついていきました。
当時の自分にとっては大金の300ドルを払い、その女性の家のリビングに座るようなジェスチャー。そこで待っていると、彼女が呼んだ友人たちが数人入ってきました。ようやく安心してブレイディングしてもらいました。ところが3~4時間だと思っていたらなんと10時間もかかりました(笑)。
彼女たちはアフリカの現地の言葉でずっと話しているので、笑ってはいるのですが、内容は全くわからない。でも、3人とも本当に楽しそうにずっと話し続けて、 私は、自分が変わっていくそのプロセスに高揚していました。
そのあたりから、少しずつ環境に慣れていき、日常生活が現地のリズムに合い始めました。街で会う人とも笑顔で挨拶や会話を交わすようになったり、声をかけられるようになりました。
無意識の制限がひとつずつ外れ、この街のエネルギーに同調しながら、理想の自分へと変わっていく実感がありました。
――そして、ついに殻が破れた日が来る。
野村:はい。レッスン場には早めに行って、談笑したりストレッチをしたり、ダンサーそれぞれが思い思いに過ごす時間の空気感が好きでした。体の柔らかい人も多く、私も早く行っては廊下でストレッチをしながら、 さまざまな国籍・バックグラウンドの人たちが行き交う様子を眺めていました。
まだスマホのない時代で、手に入る情報は“人を見ること”だけ。ファッションも、メイクも、佇まいも、すべてが生の教材でした。
ビル一棟すべてがダンススタジオで、同じ時間にいくつものクラスが開かれている。私は身体づくりのためにいろいろなジャンルを受けながら、早く行ってはストレッチをしつつ、人々の服装やメイク、過ごし方、そして何より異文化を自然に受け入れているその空気を学んでいました。そうして過ごすあの時間が好きでした。
ある日のレッスンで先生が名前を呼びながらピックアップ(選抜)を始めたんです。その日、私の名前が呼ばれました。
前奏が鳴り、前に出て踊りだすまでの間に、隣にいた黒人のダンサーが私の目を見て、手で顔を隠しながら手のひらをベローッと舐め、ウインクしてきたんです。
次の瞬間、
「あ、こういうことしていいんだ」
そこから、自分の中の壁が一気に崩れていきました。
踊りながら、なんともいえない高揚感がこみ上げてきました。
踊り終えたらクラスがドッと湧きました。
選ばれたダンサーたちが感情のままに踊ることで、クラスがひとつに共鳴した瞬間でした。
――その時の先生の言葉が支えになったと伺いました。
野村: はい。そのとき先生が“You got it in you.”という言葉をかけてくれました。レッスンの音楽の中で、英語も全部は聞き取れなかったけれど、先生が自分の胸を指さしながら言ったのは、たぶん“あなたの中にある”という意味だったと思う。
クラスの熱気が最高潮に高まる中、なんともいえない安堵感に包まれました。
“私の中にあるもの…”
先生の言葉は、ずっと胸の中で感じていた“エンターテイメント”そのものでした。
そして、ようやく――
自分の中の泉が湧き始めた感覚があったんです。
――“外側への憧れ”から“内側の覚醒”へ。まさに自己発見の旅ですね。
野村: そう思います。あの経験で、「自分を信じる」とはどういうことかを知りました。日本にいた時は「自分を出す」ことに少し躊躇していたけれど、アメリカに来て、自分を大切にすることが表現へのエネルギーへとつながると理解しました。
今のスタジオでも、生徒たちには「表現はあなたの中にある」と伝えています。それは、ニューヨークで私自身が学んだ感触だからです。
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第3章 “本物”を育てる挑戦
――ニューヨークから帰国して、最初に取り組んだ仕事は?
野村:すぐにダンサー・振付家としての依頼がありました。当時、日本のダンスシーンはまだ黎明期。そこにマイケルやジャネット、マドンナの表現を体感し、大きく影響を受けていたと思います。
最初は荻野目洋子さんのツアーなどに選ばれて、その後、安室奈美恵withスーパーモンキーズの振り付けやダンサーを担当し、デビュー前のSPEEDの育成にも関わるようになりました。
ちょうど、日本の音楽とダンスが一体化していく時代でした。
――安室奈美恵さんとの仕事は、まさに社会現象の中心でしたね。
野村:そうですね。彼女とはデビュー前に14歳で上京してきたときに出会いました。それからたびたびレッスンをしたり、日比谷野外音楽堂での最初のライブから1996年の初全国ツアー・千葉マリンスタジアムまで振付や出演をしたりと、目の前の日々に全力で無我夢中だったと思います。
それから次第に「アムラー」という言葉が生まれ、ステージの構成も衣装も、すべてがトレンドになる時代でした。彼女のパフォーマンスには、女性たちの“生き方”そのものが投影されていると言われていたようで、振り返ると嬉しく誇りに思います。
振付だけではなく、海外での学びをどう活かしてパフォーマンスをすれば、ファンの皆さんの心を動かせるのか。それを考え続ける日々でした。
――関わってこられたアーティストの顔ぶれを見ると圧巻です。
野村:ありがたいことに、本当に多くの方とご一緒しました。
安室奈美恵さん、井上咲楽さん、AKB48, 乃木坂46, 欅坂46, IZ'ONEの合同ユニット、Every Little Thing、大黒摩季さん、荻野目洋子さん、岡村隆史さん、倖田來未さん、郷ひろみさん、後藤真希さん、斉藤和義さん、スカイピース、スガシカオさん、SPEED、竹内涼真さん、TRF、仲間由紀恵さん、中条あやみさん、ピンクレディー、MAX、観月ありささん、MEGUMIさん、モーニング娘。、和田アキ子さん、渡辺直美さん、WATWING etc. (五十音順)。
250組以上のアーティストとご一緒し、ステージ、PV、テレビ、映画、CM、ドラマ、あらゆる現場で「表現とは何か」を学ばせてもらいました。当時は渋谷のスクランブル交差点のビジョンに、自分が関わる作品の映像がよく流れていて、若者の憧れとなっていたと思います。
――そうした最前線で感じた“本物”とは、どんなものでしたか。
野村:“技術”ではなく、“伝達力”だと思います。本物って、人の感覚に響く“振動”を持っている。上手いとか綺麗とかではなく、「なんか目が離せない」と思わせる力。それは見た目だけではなく、感情が真っすぐ届いているからだと思います。
街でたまたま見かけたパフォーマンスでも、足を止めて見入ってしまう人と、傍目で見て通り過ぎてしまう人がいる。その差は“響く振動を持っているかどうか"だと思います。
私は、そういった表現者を育てたいし、自分自身も常にそうであり続けたいと思っています。
――振付家として数々のアーティストを手がけてこられましたが、教育にも幅を広げられたことや、スタジオを設立されたきっかけは何だったのでしょうか。
野村: コロナ禍と母の介護、そして自分の交通事故が重なったことです。大きな事故だったので思うように体が動かず、立ち止まらざるを得なくなりました。その時にふと「スタジオを持とう」という言葉が浮かびました。
さらに母が認知症で歩けなくなり、介護を続けて3年間。どんどん認知機能が衰えていく姿を見ながら、排泄や入浴、デイケアや通院のオペレーションなども一人で奮闘してきました。転倒してさらに歩行が難しくなったことで、生活拠点そのものを見直さざるを得なくなりました。そんな折、偶然出会った物件に、なんと “ダンススタジオ用の部屋” があったんです。
「これは流れだな」と思って、その物件に即決しました。
―――生徒さんはすぐに集まったのでしょうか?
スタジオを設立したとはいえ、最初の2ヶ月は本当に少人数で、不安で夜中に目が覚めてしまう日もありました。
信頼している方に弱音を吐いたこともあります。そのときいただいた
「ひとりひとりを大切にしていれば、必ず人はついてくる」 という言葉が胸に響き、
“よし、私自身が本気で目の前の一人ひとりと向き合おう”と腹をくくりました。
ありがたくも講師として在籍しているR1kuto先生とのぶりんわ~るど先生もとても協力的に支えてくれていたので、信頼が強くなり、楽しんでいこうと決めました。それでも最初の3か月は、月に40コマのレッスンをしていました。
そこから少しずつ、子どもたちが訪れてくれるようになりました。
最初は当然ひとりの生徒から。偶然なのか必然なのか、個性の強い子たちが次々と集まってきて、毎日一生懸命に通ってきてくれる姿を見るたびに、
「この場所、好きなの?」と聞くと「大好き!」と即答してくれる。
やがて4〜5人が毎日のように通うようになり、8〜9歳の子どもたちが、スタジオを自分たちの“ホーム”にしていく様子が微笑ましく、私のパワーとなっていきました。
スタジオに通う子どもたちは、ダンスで表現するだけでなく、次世代のアーティストとなるようなトレーニングを日々積んでいます。週末のRYON・RYON特別クラスでは、自分の見せ方や表情、アーティストとしての思考までをも徹底的に学んでいます。子どもたち自身の夢や目標が明確になり、高いモチベーションを持っているので、必ずこの中からアーティストになる子が出てくると思っています。
スタジオを立ち上げてから、あっという間に1年になります。いまでは様々な公式イベントなどに、毎月出演しています。大きなお祭りでは、子どもたちのパフォーマンスを観た方から「どんな風に指導しているんですか?」「オーディションして選んでいるかのようなクオリティ」とありがたくもお声をかけていただきます。
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――子どもたちと関わる中で、どんなことを大切にされていますか。
野村: 私が目指しているのは、“素直な気持ちを持つこと”と、“泉が湧く状態をつくること”です。「素直」というのは、エンターテイメントを体得するうえでは、とても大事な要素だと思います。また、ここで言う泉とは、「表現したいという意識が自然に湧き出てくる状態」のこと。本人の中にある想いや感情が明確な意図を持って溢れ出すことを目指しています。
レッスンでは、技術を教えると同時にアーティスト特有の素直さと強さを観ています。子どもたちには、自分自身に生まれる感情の扱い方も繰り返し伝えています。
私自身、幼い頃に口にした夢を思わぬ形で受け取られ、その一言をきっかけに心の奥へしまい込んでしまった経験があります。だからこそ今は、子どもたちが抱く夢をまっすぐ受け止めたいし、どんな想いも否定せずに応援したいと思っています。自分の願いをあきらめずに進む力を、この場所で育んでほしい――それが私の願いです。
―――すると、変化が生まれる?
そうですね。「自信がついた」「自分に向き合わせてくれるから意思が強くなった」「メンタルが強くなった」―― 子どもたちからそんな声が増えていきました。子ども、ご家庭、スタジオの方針が揃い、三位一体になると、とても大きなパワーが生まれます。
―――スタジオ設立1年で、葛藤などはありましたか?
子どもたちの「やりたい」「こうしたい」という小さな欲求を大切にしている中で、子どもたちのやりたいことを模索していくことが多いです。
各家庭のあり方がそれぞれありますが、子どもたちを中心に各々を尊重しながら、保護者の皆様とコミュニケーションをとっていく時間も楽しいですね。studio WOOでは協力的なご家庭ばかりなので、巨大な家族みたいです(笑)。
――長年のキャリアを経て、今のステージで目指していることは?
野村:これまで通り、自身の表現者としての活動、クリエイティビティ、社会貢献という3つの柱を基軸にしながら、時代を彩るアーティストを育てることです。
誰もが才能を開花させ、世界で輝いていける可能性を持っていると思います。
何もなかった1年前とはうって変わり、子どもたちがそれぞれ、自分を人生の主役として毎日頑張っている笑顔が、いまの私の大きなモチベーションとパワーになっています。
そして、当時のニューヨークで得た経験が私の核となっています。
You got it in you , already.
あなたの中に、すでにある。
このスタジオは、未来のアーティストの才能を開花する場所でありたいと思います。
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studio WOO by R2
〒158-0081 東京都世田谷区深沢5丁目1−24 STEINS GATE102
Instagram:https://www.instagram.com/woobyr2_dance/
公式X:https://x.com/woobyr2_dance
Facebook:https://www.facebook.com/p/studio-WOO-by-R2-61572315406391/
野村涼子(RYON・RYON)
Instagram:https://www.instagram.com/ryon2r2
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