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「挑戦し続けることが幸せ」——両足を失っても前に進み続ける朝日新聞社員初のパラノルディックスキー選手・森宏明
2025年12月26日
野球少年から大事故を経てパラアスリートへ——森宏明の挫折と挑戦の物語
朝日新聞社のブランド企画部に勤務する森宏明選手(29)は、フルタイムの会社員とパラノルディックスキー選手という二足のわらじを履いています。長期の合宿を伴う冬季のパラアスリートとしては、フルタイム勤務は非常に珍しいといわれます。
森選手は、小学2年生から高校2年生まで野球に打ち込んできた一人の少年でした。しかし、高校2年生の夏、交通事故により両足を失うという人生の大きな転機を迎えます。その後、大学3年生の時にパラノルディックスキーと出会い、競技者としての新たな道を歩み始めました。挫折から立ち上がり、困難を乗り越えながら前に進み続ける森選手のこれまでの軌跡をご紹介します。
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小学校時代——野球との出会いと成長
森選手が野球を始めたのは小学2年生のこと。友達に誘われたことがきっかけでした。出身の東京都板橋区には、野球用具の専門ショップがあり、荒川の河川敷沿いには野球のグラウンドがたくさん並び、野球が身近に感じられる環境でした。
「小学校ではプロ野球選手になるという意気込みで野球に取り組み、地元の地区ではトップレベルのチームに在籍していました」
幼い頃から大きな夢を持ち、その実現に向けて真剣に取り組む姿勢は、後の人生にも大きく影響していきます。
中学校時代——挫折と気づき
中学生になると、森選手は硬式野球の名門チーム「東練馬リトルシニア」に所属します。都内のクラブにも関わらず、指導を受けたいと、他県からも実力ある選手が集まってくる競争の激しい環境でした。
「特に中学時代は体格に勝る選手と比べると、身体能力に差を感じて、入団当初は、同年代なのにまるで大人と子どもが野球をしているようにさえ感じました」
この経験が森選手にとって人生最初の挫折となり、プロ野球選手になる夢は打ち砕かれました。しかし、野球への愛は変わらず、高校、大学、できれば社会人になっても実業団に入ってプレーしたいという新たな目標を持つようになりました。
小学校までは投手をしていた森選手でしたが、中学のクラブチームでは通用しないと早い段階で気づきます。そこから自分にできることを着実に取り組み、内外野あらゆるポジションに挑戦して様々な動きや視点を養っていきました。最終学年の3年ではキャッチャーに定着し、戦術面や野球の考え方自体を根本から学び直す機会となりました。
「捕手としてチーム内で評価を得て大会メンバーになってからは、自分の知らない新たな一面を発見できたように感じました。そうした経験から、長く野球生活を続けるために、自分の長所や短所を見極めて得意分野を伸ばすことを重視し、思考しながら取り組むスタイルを確立しました」
高校時代——主将就任と大事故
中学校卒業後、森選手は「大学に入って東都リーグで野球をする」という目標を持ち、実戦経験が多く積める環境で、勉強にも取り組める高校として、自転車で通学できる淑徳高校に進学しました。1年生の夏の公式戦から試合出場を重ね、上級生が引退直後の高校2年の7月に結成された新チームでは主将を任されるまでになりました。
「これまではチーム事情によって投手、捕手から内外野、あらゆるポジションを守ってきたいわゆるオールラウンダーでしたが、今後は野球選手としてのキャリアを真剣に考えていくうえで、投手に専門的に取り組んでいくことを決めて、この時期もっとも真摯に野球に取り組みました」
当時の森選手には明確な目標がありました。「駒澤大学に進んで野球を続け、社会人リーグの実業団であるSUBARU硬式野球部でプレーしたい」――。その夢に向かって日々努力を重ねていました。
しかし、2013年8月下旬、秋の大会に向けて他校との練習試合を重ねていた時期に、森選手は自動車にひかれ両足を切断するという大事故に見舞われました。
「練習試合を終えた夕暮れ時に事故は起こりました。車がすごいスピードでこちらに向かってきて、車のバンパーと建物との間に足を挟まれました。最初は何が起こったかわからず、自分の身に起こったことを理解してからは、痛み以上に、生きていられるのか、今後どうなるか分からない不安感と、悲しさのピークが一気に訪れて混乱していました」
自分の足がちぎれて、歩くことはおろか立ち上がることもできない状況でした。しかし、それ以上に野球部の仲間たちはパニックを起こしていて、その状況を俯瞰で見ているような錯覚もあり、どこか冷静さを取り戻した自分もいたようだと森選手は振り返ります。
「出血多量だったこともあり、何度も意識が飛びそうになりながら、必死で自我を保っていました。救急車で運ばれているときのことも覚えていて、最終的には処置室に入って麻酔を打たれた瞬間に意識が飛びました。気付いたら病室ベッドの上で足が無い状態で横たわっていました」
事故が起きた現場で、両足を失ったという状況はわかっていたという森選手。緊急手術の際に、担当医の整形外科の医師から「君の足は治らない」とはっきり言われたことで、そこからはもう無いものは無い、仕方がない、という気持ちになっていたそうです。
リハビリと復学——前向きな姿勢と東京2020への予感
手術後、集中治療室で目覚めた森選手は、包帯でぐるぐる巻きになった膝下までしかない両足を見て「ああ、本当に無くなったんだな」と思ったと振り返ります。ショックというよりは、ただ淡々と目の前に広がる現実を受け入れて、一つずつ状況を理解し、この先どう生きていくかを真剣に考えていたそうです。
緊急搬送された大学病院で傷の治療を経て、その後はリハビリ病院へ転院した森選手。リハビリの日々は決して楽なものではありませんでした。
「術後は、下肢の長さがひざ下約10センチまでに短くなってしまい、ひざが自然と曲がってしまいます。これを放置すれば変形したまま関節が固まり、最終的にはひざを伸ばせなくなる状態になってしまう。そうなると義足を履いて生活する際には支障が出てきてしまうので、それを防ぐため早期にひざの伸展をするリハビリを行う必要がありました。まだ手術で縫合した傷口が塞がっていない時期は本当に痛みで涙が出ました」
さらに、術後、右足の治療経過が芳しくなく、皮膚を切除して再縫合する手術も経験しました。2週間ほどが経ち、自分の中では回復に向かっているものだと信じていたのに、また振り出しに戻ったのだと思い込み、その時間が入院期間中で最も落ち込んだと森選手は振り返ります。
それでも、「野球に代わる目標をみつけたい。とにかく前に進みたい」という思いに突き動かされ、リハビリに対して前向きに取り組みました。入院生活は半年ほどで終わり、翌年2月には高校に復学しました。
2014年夏の全国高校野球東東京大会では、メンバーとしてベンチ入りし、義足でシートノックもこなしました。
パラスポーツとの出会い——新たな可能性
森選手は、高校3年生の夏休み前、日本パラスポーツ協会(JPSA)主催の選手発掘事業の案内が学校にファクスで届いたことをきっかけにパラスポーツの世界へと足を踏み入れます。
最初はアイスホッケーから声がかかり、代表の強化合宿に何度か参加しました。しかし、大学受験を控えていたり、実家の東京都から練習拠点の長野県まで毎週末通う難しさがあったりと、タイミングが合わず、本格的に競技に取り組むことはできませんでした。
大学時代——パラノルディックスキーとの出会い
高校卒業後、明治大学に進学した森選手は、スポーツ施設でのアルバイトや学問分野の研究に熱中しながら学生生活を過ごしていました。そして就職活動へと切り替わる時期に差し掛かっていた2017年の大学3年夏、人生を大きく変える出会いがありました。
「パラノルディックスキーで、当時、日本代表監督をしていた荒井秀樹さんから突然自宅に電話がかかってきました。『ノルディックスキーという競技がある。まずは直接会って話をしないか』と電話越しの熱意に押され、『一回会って話を聞くぐらいはいいか』という気持ちで、その日に都内のカフェで会いました。そこでパラノルディックスキーという競技を知りました」
元々、スキー経験はほとんどなく、寒冷地や雪にもなじみがなかった森選手。ノルディックスキーという未知の領域へ飛び込むことそのものに不安があったといいます。しかし、スポーツから数年遠ざかり、周囲の期待から目を背けていたことは心のどこかで引っかかっていて、もしもこのタイミングで始めなければ、今後の人生で競技スポーツに取り組む機会は訪れないのだろうとも感じていました。
「『このまま競技にチャレンジしないで自分は納得がいくのか』『本当に自分がやりたいことは』…自問自答を繰り返し、これが自分にとってのラストチャンスだと思い、荒井さんとカフェで会話を交えた1週間後には、競技を始める決断をしていました」
国際大会デビュー——最速の挑戦
森選手が競技を始めたのは2017-18シーズン、平昌パラリンピックの年でした。11月中旬の北海道旭岳で約10日間の合宿に参加し、そこで椅子型の「シットスキー」と呼ばれる競技用具に初めて乗り、スキー板を装着して雪上を滑りました。
「まずは転び方と起き上がり方の練習からスタートしてその合宿後は、中4日でワールドカップに参戦するためカナダ西部のキャンモアへと向かい、国際レースに出場するという最速の大会デビューを果たしました」
しかし、慣れない寒冷地での生活が続いたうえ、限界を超える運動で疲労も重なり、現地に着いた途端に発熱し、倒れてしまいました。体調を崩して大会前日まで寝込んでしまい、病み上がりで迎えた初のワールドカップは、ほろ苦いデビューとなりました。
「レースの結果は散々で、そううまくはいかないものだと競技自体の難しさを痛感しました。しかし、同時にスキーの楽しさや奥深さに魅了されてこの競技を今も続けています」
森宏明が伝えたいこと——挑戦の大切さと周囲のサポート
日本パラリンピアンズ協会の副会長を務める森選手は、自身の経験を語るようになりました。
「何をやるにしても始める時が、もっとも勇気が必要になります。また、始める前に『できない』と決めつけないことも大事だと考えています。自分にはできないと決めつけず、勇気を出してコンフォートゾーン(居心地の良い状態)を抜け出してみると、自分でも思ってもみなかった結果につながるかもしれません」
事故によって足を失った森選手は、これまで挑戦を続ける中で意識の変化があったといいます。
「私自身、『障害』というものは、できることとできないことがはっきりしているだけだと思えるようにもなりました。当然、誰しも得手不得手はあります。とくに自分では、それがより分かりやすく表面的に出てきただけだって、そう思っていたら自然と吹っ切れることができていました」
教育の題材としてもなるのではないかと思い立ってからは、あらゆる学校へ訪問し教育現場で自身の生い立ちや当時の事故の経験を生徒の方たちの前で話をする機会も増加。今後も自身の経験をもって伝える活動を続けていきたいと語ります。
「目標に向かって夢中で取り組んでいること自体がなによりも幸せ」という森選手。挑戦することを恐れず、目の前の困難に立ち向かい、自分なりの道を切り開いていく姿にご注目いただければと思います。
■森宏明選手のプロフィール
競技種目:パラノルディックスキー・クロスカントリー クラスLW12座位
もり・ひろあき 1996年4月26日生まれ、東京都板橋区出身。淑徳高校野球部で主将として活躍していた高校2年生の夏、猛スピードでクラブハウスの敷地内に突っ込んできた車と建物に挟まれ、両足を切断。2014年夏の全国高校野球東東京大会では、メンバーとしてベンチ入りし、義足でシートノックもこなしました。明治大学入学後、3年生の2017年よりパラノルディックスキーを始め、FISパラクロスカントリー世界選手権や北京2022パラリンピック冬季大会などに出場。朝日新聞社ではオリンピック パラリンピック・スポーツ戦略室などを経て、今春からはブランド企画部で朝日新聞社のプロモーション活動に取り組んでいます。
競技に励むほか、パラアスリートとして、自身の経験や視点での発信にも力を入れています。大きな挫折を体験しながらも、障害と向き合いながら、努力と意志で自らの夢をかなえてきた経験を講演などを通じて伝えています。2024年から日本パラリンピアンズ協会(PAJ)副会長を務めています。
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■朝日新聞社の障害者スポーツ支援の取り組み
朝日新聞社は、パラアスリート・森宏明選手の支援にくわえ、2025年11月に開催されるデフアスリートを対象とした国際総合スポーツ競技大会「第25回夏季デフリンピック競技大会 東京2025」にもトータルサポートメンバーとして協賛しました。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001755.000009214.html
朝日新聞社は、創刊150年を迎える2029年に向けて朝日新聞グループのパーパスを策定しました。このパーパスは、私たちが社会において果たすべき役割と使命を明確にしたもので、「個の尊重」を前提としつつ、人々や社会、歴史をつなぎ、未来への希望や進むべき道を見いだす、という思いを込めています。朝日新聞社はこれからも、報道や事業などを通じて、障害の有無を問わず互いへの理解を深め、尊重し合うことを目指していきます。
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