株式会社サンギ
アパガード「芸能人は歯が命」のコピーはなぜ生まれた?サンギを支えたメンバーが語る、会社の50年史 前編
2025年02月03日
2024年に創業50周年を迎えたサンギ。その歴史を辿れば、1970年代後半にハイドロキシアパタイト配合歯みがき剤を開発し、1995年には「芸能人は歯が命」のTVCMで一世を風靡。
2024年4月には、米国宇宙財団が主宰する宇宙技術に関する優れた開発を表彰するアワード「Space Technology Hall of Fame® (宇宙技術の殿堂)」で日本企業として初めて殿堂入りを果たすなど、栄光に彩られた半世紀のように見えるかもしれません。
しかし、ここまでの道のりは艱難辛苦の連続でした。乗り越えられたのは、「新しいものを世に生み出したい」という情熱と信念を持つ人間が多く集まった会社だからにほかなりません。
そんなサンギの50年史を今回、創業者である代表取締役会長の佐久間周治(写真中央左)、代表取締役社長のロズリン・ヘイマン(写真中央右)、執行役員 アパタイト事業部担当の斉藤宗輝(写真右)、サンギOBで元品質保証部 部長の藤田恵二郎(写真左)のインタビューで紐解いていきます。
黎明期はワインの輸入業で苦戦も、NASAの技術で光明見出す
サンギの歴史が始まったのは1974年9月のこと。大学卒業後、高校の英語教諭→貿易会社勤務というキャリアを歩んでいた33歳の佐久間は、起業を決断します。資本金は200万円で、オフィスは東京都中央区入舟町の実家にあった小さな空きスペース。創業メンバーは、貿易会社時代の同僚とロズリンの友人からなる計3名でした。
佐久間:会社を創業する方にはそれぞれ何らかの思いがあるものですが、私の場合はただなんとなくで。ドラマチックな動機はなかったですね。もともと、組織に縛られることがあまり好きなタイプではなく、正直なところ『独立にして自由にやりたい』くらいの思いしかありませんでした。
サンギ創業者 代表取締役会長 佐久間周治
佐久間は、貿易会社時代の海外出張で訪れた国で、現地の人々が楽し気にワインを飲んでいたことを思い出します。「ワインは日本では新しい市場だから、いい商売になるのではないか」。そう思い立ち、フランスのワインメーカーと提携してワインの輸入を開始したものの、本場の味は当時の日本人に受け入れられず、思うように売れません。その後も、オーストラリアのサーフボードからイギリスの高圧式ホース、果てはインドの卒塔婆まで、ありとあらゆるものを仕入れて販売しましたが、いずれも芳しい結果は得られませんでした。
苦境を打破する突破口となったのは、物品の輸入業と並行して進めていた特許をはじめとした知的所有権の売買ビジネスでした。佐久間は、この時期にアメリカ航空宇宙局(以下、NASA)が数千件に及ぶ保有特許を販売しているという情報を聞きつけ、販売リストを入手します。このリストの中で目を付けたのは、デンタル領域の技術でした。
技術の内容は、リン酸カルシウムの一種であるブルシャイトが起こす口腔内の化学反応によって歯と骨の主成分であるハイドロキシアパタイトが生成し、歯の表面に新たな層を形成させる技術を提案するというもの。元々この技術は、無重力の宇宙空間に長期間滞在しなければならない宇宙飛行士の歯や骨の健康を維持する目的で研究が進められていました。以前に取引先の化粧品会社社長から高価格帯の高機能歯みがき剤のアイデアを聞き、また、協力者となりそうな歯科医の知人からのアドバイスにより佐久間はこの特許に可能性を見出し、「『これを買おうかな』と思ったのが、NASAに接触した最初の出来事でした」と振り返ります。
佐久間:NASAの特許を見つけて、まずは、サンギ創業時に出資してくれた株主の歯科医に相談しました。歯科医は「面白そうだ」と言ってくれたので、「NASAに行って発明者に会ってくれないか」とお願いしたところ、「いいよ」と承諾してくれた。しかし、あとになって「NASAの主任研究員と渡り合うのには自分の知識では不安だ」とおっしゃられて。そこで、この話を持って行った時に興味を示してくれた大学教授と2人で行ってもらうことにしたのです。向こうでは丁々発止のやり取りがあったようですが、2人から「これは面白いだから買いだ」と勧められて購入を決断しました。価格は約400万円。「さほど高いものじゃないだろう」と高をくくっていたんですけど、あの時は今と違って1ドル360円の固定相場制でしたから、高い買い物にはなっちゃいましたね。
初の自社工場は家賃6万円の“ウサギ小屋”?
とはいえ、ここからが大変でした。「特許ってアイデア倒れが多いんですね」と佐久間が言うように、特許購入後、約1年間にわたって日本歯科大学で研究を続けましたが、ブルシャイトからハイドロキシアパタイトが生成されることはありませんでした。そこで佐久間は「口腔内で化学反応を起こすのではなく、ハイドロキシアパタイトを合成し歯みが剤に入れたらどうか」と発想を転換。友人に紹介された東京医科歯科大学でハイドロキシアパタイト研究の第一人者から「自分たちでハイドロキシアパタイトを作ってはどうか」とのアドバイスを受けます。
佐久間:あの頃は「資金もないし、大したことができないかもしれない」と思いながらも、ハイドロキシアパタイト製造工場用の物件を探し回っていました。ある時、うちの顧問弁護士が茨城県岩井市に建つ物件の存在を教えてくれたんです。そこはかつて、地元の農家がウサギを食品にするプロジェクトを実行するために建てられたウサギ小屋でしたが計画がとん挫し、ウサギを一羽も飼育することなく撤退していたので、工場にちょうどいいのではないかと勧められたんです。たしか月6万円だったかな? そんなわけで物件を契約し、ハイドロキシアパタイトを作る大学生を募集したのです。
「“ウサギ小屋”では、僕が通う大学の先輩がアルバイトで働いていました。先輩から『あそこの会社にだけは絶対に行くな』と言われていましたね(笑)」と斉藤は話します。なぜ彼は、黎明期のサンギに入社を決めたのでしょうか。
斉藤:私は「大きい会社の歯車になるのは嫌だ」と思っていました。当時、工学部は就活市場において超売り手市場。どこでも好きな会社を選べる状況でしたが、大企業はあえて避けていたんです。そんな折、大学の教授から「サンギに就職してみないか?」と提案されました。なんとなく「面白そうだな」と思い、受けてみることにしたんです。面接では佐久間会長に銀座キャピタルホテルのレストランに連れて行かれ、ステーキをご馳走になり、色々お話を聞いているうちに、社長の人柄や会社がこれからやろうとしていることに興味がわき、入社することにしました。
執行役員 アパタイト事業部担当 斉藤宗輝
“ウサギ小屋”は、車でしかアクセスできない竹林の中に建てられており、床がコンクリートに覆われ、窓には鉄格子が張られていました。入社早々、本社とこの自社工場を行き来して働いていた斉藤は「岩井には何もなかった」と回想します。
斉藤:現在の会社を見ていると、「今の子たちは何でこんなに恵まれているんだろう」と羨ましい気持ちになります。当時あったのは、天秤、ペーハーメーター、電気炉、攪拌機、スイコータンクくらい。この時はパソコンも用意されておらず、手書きのノートで作業を進めていました。生成物を確認するすべもなく「アパタイトを作れ」と言われて、「どうやって作ればいいんだよ?」と正直思いましたね(笑)。
一方、斉藤とほぼ同時期に入社した藤田は「入社直後、佐久間会長から『藤田、お前は固定化酵素を歯みがき粉に入れる実験をしろ!』と言われました。学生時代、私はリン酸カルシウムではなく、似たようなリン酸コバルト、リン酸マグネシウムなどの研究をしていたので、『同じリン酸系だから大丈夫だろう』と思い、勤務を命じられた東京医科歯科大学に行ったんです。そしたら実際には『牛の骨から骨生成因子を作るから手伝え』とこれまた全然違うテーマで。『あれ?歯みがき剤に入れる固定化酵素じゃないんですか?』と驚いたのを覚えています(笑)」といい、さらに新人時代の苦労話を続けます。
藤田:ちょっと私にはレベルが高すぎましたね。歯学部ではない大学の卒業者の私に対し、周りはみんな歯学部の大学院生でドクターを目指している人ばかり。様々な面で知識が不足していて大変でしたが、中でも文献を読むのに一番苦労しました。英語は読めない。おまけに歯学部の言葉はわからないで。当時は大学で毎日深夜まで働いてましたね。でも、とにかく研究や実験が好きだったから、日々楽しく仕事ができていた記憶があります。
元品質保証部 部長 藤田恵二郎
コピーが「芸能人は歯が命」に決まった際、佐久間が「バカヤロー!」と怒った理由
斉藤や藤田ら若い技術者たちの努力の甲斐あって、ハイドロキシアパタイトの合成に成功します。1980年には、日本ゼオラ株式会社(現:日本ゼトック株式会社)との共同開発により誕生した、ハイドロキシアパタイト配合の歯みがき剤「アパデント」を発売。さらに1985年には美白歯みがき「アパガード」を発売しました。
1993年2月にはサンギのハイドロキシアパタイトがむし歯予防の薬用成分「薬用ハイドロキシアパタイト」となりました。これを契機にサンギは「アパガード」のプロモーションを活発化させ、あの一世を風靡したキャッチコピーが誕生することになるのでした。
佐久間:製品を販売しているうちに、売り上げ増が期待できる言葉として「芸能人」「歯が白い」という2つのキーワードが見えてきました。最初は、「芸能人は歯が白い」というコピーを考えて、TVCMを打つことにしたんです。しかし、当時副社長の福田章(現:取締役最高顧問)が東京都に確認しに行ったところ、「芸能人だからといって、歯が白いとは限らないじゃないですか」と却下されてしまった。
この時「『芸能人は歯が命』でどうですか?」と咄嗟に切り返したんです。これには担当者も「歯が重要ということならわかります」と認めてくれました。その後、福田から「社長すいません。『芸能人は歯が白い』では通りませんでした。代わりに『芸能人は歯が命』にしました」と連絡がきたので、僕は「バカヤロー!なんとか粘って来い!」と促しました。福田は「もうダメです。粘れません。これ以上粘ると東京都を怒らせちゃいます」と返答したので、「じゃあ、しょうがない」と電話を切りましたね。
「早紀ちゃん!」「幹久くん!」「芸能人は」「歯が命」ーー。芸能人カップルに扮した俳優の高岡早紀と東幹久が、こんな印象的な掛け合いをするTVCMは、1995年8月に放送されるや否や大変な話題を呼び、「芸能人は歯が命」のフレーズはこの年の流行語となりました。このTVCMを大々的に展開するために佐久間は10億円もの資金を調達したといい、「そんなにお金をかけて、福田は震えあがってましたよ(笑)。まぁ、ああいうことができるのは若さと狂気ですよね。今考えるとぞっとしますよ」と述懐する。ここからサンギは、ジェットコースターのような浮き沈みと再建の歴史を歩むことになります。
――(後編に続く)
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