スウォッチグループジャパン株式会社 グラスヒュッテ・オリジナル事業本部

グラスヒュッテ・オリジナル、オートオルロジュリーへの回帰のストーリー

2025年10月27日


意志あるところに道は開ける


1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、40年間続いたドイツ分断の終焉を告げましたた。物資不足に苦しんだドイツ民主共和国(GDR)の崩壊は、多くの市民にとって待望の解放でした。人々は陶酔感に満たされ、長年にわたる旧東ドイツの欠乏経済からの解放、自由と繁栄の生活を切望しました。しかし、当初の熱狂の後はすぐに現実の厳しさに直面しました。国内産業の多くは荒廃し、非効率な運営を余儀なくされ、西側諸国の企業と直接競合できる企業はごくわずかでした。


その結果、市場の開放は経済ショックを引き起こしました。産業のあらゆる分野は一夜にして陳腐化しました。ドイツ民主共和国(GDR)の大企業はほぼ全て国有企業であり、ドイツ連邦政府にとって大きな課題となりました。何百万人もの雇用は、自由市場経済では競争力がなく、抜本的な再建を必要とする企業に依存していました。政府はこれらの企業の民営化を命じましたが、多くの場合、投資家の獲得に失敗しました。


1990年10月16日にGlashütter Uhrenbetrieb GmbH(グラスヒュッター・ウーレンベトリーブGmbH)として商業登記されたVEB Glashütter Uhrenbetriebe(VEB グラスヒュッター・ウーレンベトリーベ)も、まさに同じ厳しい経済状況に直面しました。再建信託機関(Treuhand Agency )による管理下に置かれた同社は、経済的理由から、不動産の大部分とA. Lange & Söhneのブランド権を売却しました。長い不安定な期間を経て、最終的に買い手が見つかったものの、それは多くの人が望んだ救済策とは程遠いものでした。1990年頃に雇用されていた約3,000人の従業員のうち、継続して雇用できたのは、わずか74人でした。



Glashütter Uhrenbetrieb GmbH(グラスヒュッター・ウーレンベトリーブGmbH)は、歴史あるブランド名を復活させるのではなく、グラスヒュッテ・オリジナルという名称によって、敢えてグラスヒュッテ時計産業の伝統を尊重するという決断をしました。その名の着想は、1920年代に確立された「Original Glashütte」の品質保証マークに由来しています。特に「System Glashütte」として宣伝された模倣品と区別するために、地元企業はこの刻印を自社の時計に使用していました。


グラスヒュッテ・オリジナルは、かつてドイツのエルツ山地にある小さな町を世界的に有名にした時計製造の技術を復活させることを目指しました。1992年にグラスヒュッテ・オリジナルの時計職人たちが彼らの技術力を証明してみせたように、鉄のカーテンの向こう側で半世紀が経っても、かつての熟練の職人たちの技巧はまったく失われていませんでした。


GDRの経済体制が崩壊してからわずか数か月後、贅沢品や伝統工芸が避けられていた中で、職人たちはスイス式アンクル脱進機、グラスヒュッテ式アンクル脱進機、振り子クロノメーター、スプリングクロノメータ脱進機付きトゥールビヨンの精巧な技術を駆使したモデルを製造しました。設計者と時計職人たちは、グラスヒュッテ・オリジナルが進むべき道は、そのルーツへの回帰にあると認識していました。技術力を証明するために、彼らは大胆な目標を掲げました。それは、高級複雑機構と卓越した機械構造で、グラスヒュッテの名声を取り戻すことでした。この目標を念頭に置いて、彼らは新しいトゥールビヨンムーブメントの開発を始めました。



1997年、グラスヒュッテの歴史において史上最も芸術的なタイムピースの数々を手がけたJulius Assmann (ユリウス・アスマン)に敬意を表し、Julius Assmann “Drehganguhr”が発表されました。この時計はケースから取り外すことができ、腕時計としても懐中時計としても着用できます。キャリバー51-55に搭載されたトゥールビヨンは、アスマンの時代には一般的であったように、裏蓋に取り付けられており、ケースバックからさりげなく鑑賞することができます。


1999年には、フライング・トゥールビヨンの独創的な発明者へのオマージュとして、アルフレッド・ヘルヴィグ・トゥールビヨンNr.1が発表されました。キャリバー41-01は、グラスヒュッテの最も有名な発明であり、小型化された文字盤の上に配置することで、その存在感を際立たせています。2000年春、グラスヒュッテ・オリジナルは、カウントダウン機能を搭載した世界初のクロノグラフであるるパノレトログラフを発表しました。あらかじめ設定された時間に達すると、自動的に音により通知される機能が搭載されました。



これらの目覚ましい新作によって、このブランドは瞬く間にその名を知られるようになりました。時計業界の雇用が大幅に減少してから数年後、同社は再び時計職人の増員を必要としていました。さらに、比較的小規模な企業であったため、国際的な地位を確立するための流通経路が不足していました。ニコラス・ G・ハイエックはこのブランドの可能性を見出し、自らがトップに押し上げることができると確信しました。 2000年にスウォッチ・グループに加わることで、グラスヒュッテ・オリジナル に新たな道が開かれました。


技術開発はフルスピードで進められ、その成果はより幅広い製品ラインへと展開されました。新しいセネタ コレクションにおいて、設計者たちは初めてインテリジェント自動巻き機構を開発しました。自動巻きキャリバー100は、完全に巻き上げられると、両方向巻きから片方向巻きに切り替わり、ムーブメントのツインバレルを保護します。2006年のセネタ・カレンダー・ウィークと2010年のセネタ・ダイアリー では、前例のない2つの複雑機構の実現に成功しました。



デザイン面でも、グラスヒュッテ・オリジナル は早くから自信を示していました。2003年に発表されたパノコレクションは、黄金比にインスパイアされた非対称の文字盤レイアウトが特徴です。古来より、いわゆる「神の比率」は、自然界のさまざまな造形に見られる絶対的な美は数学的な鍵と考えられてきました。ミニマルなパノマティックデイトとパノマティックルナに続き、翌年には、これまで世界で最も印象的なクロノグラフのデザインのひとつであるパノマティッククロノを発表しました。2006年には、プッシュボタンで簡単に移動時間を調整できる機能が備えられたデュアルタイムウオッチのパノマティックヴェニューがコレクションに加わりました。2010年のパノマティックカウンター XLでは、サイドプッシャーを活用し、0から99までのカウントを可能にしました。



180年の歴史の中で、グラスヒュッテの時計産業は多くの浮き沈みを経験してきました。そして、それぞれの時計職人が乗り越えなければならない危機に直面してきました。揺るぎない意志と不屈の精神は、歴史を赤い糸のように繋いでいます。


ベルリンの壁崩壊後の社会主義の影響を受けた産業の壊滅は、グラスヒュッテの時計製造の伝統の終焉をも招きかねない、転換点となりました。先人たちがそれぞれの時代に経験し、創造してきたものは、今もなお息づいており、グラスヒュッテ・オリジナルのアイデンティティと哲学の核となっています。今日、私たちはこれまでの功績を誇りを持って振り返るだけでなく、挫折についても振り返ります。これらの瞬間こそが、グラスヒュッテの神話を築き上げてきたからです。


まさに、「意志あるところに道は開ける」1世紀以上にわたって時計学校の噴水に刻まれている言葉の通りです。


グラスヒュッテ・オリジナルは今年創立180周年を記念し、各世代の時計職人たちがどのように時を刻んできたかを数回に分け、ストーリーを通して皆さまへ発信していきます。時計職人が歩んだ180年をお楽しみください。

ストーリの画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。


グラスヒュッテが時計製造にメートル法を確立するまで

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ドイツ時計学校グラスヒュッテ校

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グラスヒュッテの腕時計

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創造性と不屈の精神

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グラスヒュッテ・オリジナルについて

真のマニュファクチュールによる時計製造の価値を受け継ぐグラスヒュッテ・オリジナルの歴史 は、1845 年から一度も途絶えることなく続いています。ドイツ ザクセン州の町、グラスヒュッテに あるグラスヒュッテ・オリジナルのマニュファクトリーでは、伝統的な職人の技能と革新的なテクノ ロジーを見事に融合させています。豊かな伝統を持つこのブランドは、ムーブメントの全部品の最大 95%に加え、精巧な文字盤までも自社で製造しており、最高水準のドイツの時計製造技術を誇ります。


ウェブサイト:Glashütte Original - German Watchmaking Art






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