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かわさきツナガリ 俳優 福士誠治さん

かわさきツナガリ 俳優 福士誠治さん

今回は、舞台、ミュージカル、映画、テレビドラマ、演出など幅広い分野で活躍する俳優の福士誠治さん。生まれも育ちも麻生区だそうです。

プロフィール
1983年6月3日生まれ。麻生区出身。2001年CMデビュー。2002年ドラマデビュー。

■山道を通り通学

 東柿生小、柿生中の卒業生です。
 生まれ育った麻生区には28歳まで住んでいました。そこには今も両親が住んでいるので、ちょくちょく顔を見に帰っています。割と自然の多い所です。子どもの時はクワガタをよく捕まえたし、中学への通学路は山道。今は舗装され〝おっ越し山ふれあいの森〟といわれていますが、当時はそんな名前も無く、がけの上を歩いているようでした。慣れなんでしょうね、怖いとは思いませんでしたし、今も川崎の緑の多い場所が好きです。

2歳の頃。自宅で兄のランドセルを背負う

■昭和の〝がきんちょ〟

 どちらかというと走り回っている子でした。学校の休み時間はドッジボールや鬼ごっこ。帰ったらランドセルを置いて野球、ドロケイ、同級生の家でレゴブロックとか、昭和の〝がきんちょ〟ですね。

 「柿生こども文化センター」へもよく行き、竹馬、ベーゴマなどの伝承遊びや、室内ホッケー、ミニ四駆などで遊んでいました。館長さんにけん玉を教えていただき、一日1回、検定を受けて級が上がるのがうれしかったです。「上手だから」と5、6年生のころに何度か大会にも連れて行ってもらいました。

■野球チームに

  3年か4年生で、5歳上の兄が所属していた野球チームに入りました。母にずっと「入りたい」と言っていて、「そんなにやりたいんだったら」とやっと許しが出たのです。土日の午前中に練習し、大会にも出て…。同じチームには同級生もいたのでみんなで「頑張ろう」という感じ。6年生の時には地域の選抜チームの選手に選んでいただき、背番号1を付けていた気がします。細かいことまで覚えていませんがなにかの大会で優勝し、敢闘賞をもらいました。当時は「自分は野球」と思っていて、中学3年まで続け、野球を通じで学んだチームワークの大切さなどは、今の舞台や映像の現場でも生きている気がします。

 当時はどこに行くにも自転車でしたね。王禅寺のプールとか早野とか。よみうりランドの裏にある巨人軍の練習場にも行き、桑田真澄投手にサインをもらったこともあるんですよ。いい思い出です。

■音楽との出合い

 中学時代はすごく平和でした。僕はスポーツが好きなグループに入っていて、休みの時は友達とグラウンドでサッカーや体育館でバスケをすることが多かったです。

 中2の頃に、一つ上の先輩がギターを弾いている姿を見て格好いいと憧れました。自分もやってみたくなり、母に2万円くらいのギターの初心者セットを買ってもらい練習し、3年生の時にバンドを組み〝3年生を送る会〟でGLAYさんの曲だったと思いますが発表しました。担当はギターとコーラス。

その後、鍵盤楽器にも興味が湧いたので、同級生が捨てようとしたエレクトーンをもらい、ピアノを3年間くらい習い楽譜を見れば音が取れるようになりました。幼少のころ、家ではいつも母がクラシックのレコードをかけていたことも含め、今のミュージカル出演に多少、役立っているのかな。「母ちゃんありがとう」と感謝しています。

 

■オーディションに

 高校は、世界を広げたいという好奇心と、電車通学へのあこがれで都内の男子校に通いました。

 学校の友人とバンドを組み、L’Arc〜en〜Cielさんなどをコピーしたり、オリジナル曲をみんなで作ったりして、ライブ活動をしていました。担当はボーカルです。今の仕事に影響を与えているかは正直分かりませんが、人前に出てみたいという気持ちにはつながっているように思います。

高3の頃からテレビに出てみたいと本格的に思うようになり、専門誌を買ってオーディションを受けて落ちて、を経験する中で芸能事務所の存在を知りました。それ以降、事務所や養成所を探し始めるのですが、俳優なのかタレントなのか、希望のジャンルを何も決めていない。応募書類の希望欄にはお笑い以外全てに丸を付けていました。そんな中、ある事務所が「入所費は不要。レッスン料だけ」と言ってくれたのでそこに入ることに。

 両親は反対というより「お前なんかが大丈夫か?」という感じ。少し心配そうでしたが、やりたいことをやらせてくれたので、僕も「ここからは親のすねをかじらず自己責任だ」と決心するくらいの真剣さで挑みました。親の気持ちも分かっていたので事務所のレッスン料は自分で稼ぐと決め、いろいろなバイトを経験。一番長く続けたのが地元のスーパーに入っていた総菜コーナーです。調理を手伝ったり、商品を棚に出したり、掃除したり。23歳でNHKの朝ドラ「純情きらり」に出ていた頃から少しずつ顔が知られるようになっていましたがバイトは続けていました。スーパーでは僕よりも僕が貼る半額シールに人が群がっていましたね。撮影が立て込みシフトに入れなくなると「代わりに入るよ」と言ってくださるパートのおばちゃんがいてありがたかったです。

 「頑張ってね」と声をかけられることも増え自分が思い描いていた〝芸能人〟に近づいている感じがうれしかったこともありました。

 ある時、駅で電車を待っていたらおばあちゃんが話しかけてきてくださったので「こんにちは」って頭を下げたら「ここは女性専用車両だよ」って。人間、おごっちゃいけないなと思った瞬間ですね。

 母は全く知らない世界に僕が入ってしまったのが不安なようで、ほんの数年前まで僕のマネージャーに会うたびに「誠治は仕事がありますか、大丈夫かしら」と聞いていました。

 今は近所のお母さん仲間と、僕が出る舞台を見てその後、お酒を飲みながらしゃべることを一つの楽しみにしているようです。好きな仕事で親に元気な姿を見せることが親孝行になっているといいなと思っています。