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ピアノ力士 友風勇太関

ピアノ力士 友風勇太関

 三月場所(大阪)を8勝7敗で勝ち越し、5月14日(日)から両国国技館で行われる五月場所をひかえる、川崎区出身でピアノ力士として人気の友風勇太関の登場です。

インタビューに答える友風関

■赤ちゃんの時からピアノ

 生まれた時は3300㌘でしたが、離乳食が始まる前から大人が何かを食べているとよだれをだらだらたらすほど食欲のある赤ちゃんだったようで、3カ月で10㌔、幼稚園の年長では50㌔と体の大きな子でした。
 家に母のピアノがあったので赤ちゃんの時から鍵盤をたたいて遊んでいたそうです。
 先生についたのは小学1年からです。家では母が教えてくれました。うまく弾けないと悔しくて泣くくらい、ピアノは大好きでした。絶対音感はありませんが、譜読みは得意です。下手になりましたがピアノは今でも大好きで、機会があれば弾いています。
 6年生の時に全校児童を対象にした運動会の歌の募集がありました。作曲部門と作詞部門があり、作曲部門にピアノの先生と相談しながら作った曲を出しました。それが最終的に全校集会の投票で1位に。自信はありましたね。
 15年以上前の話ですが今もその歌『楽しい楽しい運動会』が宮前小で歌われています。地元に帰ると言われることがありますし、曲をかける前に「卒業生の友風さんが作った」ってアナウンスをすると反応がすごいらしんです。校長室近くの〝友風ゾーン〟に写真や番付表が貼ってあり、僕のことを知ってくれているみたいで。ありがたいですね。いつか学校訪問し、子どもたちが歌う姿を見てみたいです。

宮前小学校の「友風ゾーン」

■思ってもいなかった柔道部へ

 体を動かすのも大好きでした。幼稚園の時からやっていたフルコンタクトの極真空手は痛いのが嫌で小学4、5年でやめましたが、同じ時期にやっていたミニバスは、楽しくて好きでした。
 富士見中でもバスケ部に入ろうと体育館に行こうとしたら着任したばかりの、柔道部の顧問だった天川美章先生(現川崎市相撲連盟副会長)が「大きいな。バスケじゃないだろう。柔道部に来い」って。当時の僕は173㌢100㌔くらい。天川先生も同じくらいの体形だったと思います。柔道なんて全く考えていなかったのですが、先生がぐいぐい来るっていうか、授業中にも教室に入ってきて「どうだ柔道部考えたか」って言ってくるんですよ。あまりにも言われるので見学しに行ったら小柄な女子に簡単に投げられてしまい衝撃を受けました。
 天川先生は自分の体がどれだけ強いか示すために道着に黒帯を締め、「顔以外、好きな所をなぐってみろ」とか、寝転がって「腹筋の上をジャンプしてみろ」って言うんですよ。最初「先生、死んじゃいますよ」と言ったんですが「いいからやれ」と言うので、僕も中学生なんで容赦なくやりました。でも、びくともしない。「こんな強い人、初めて見た」と柔道部に入る気持ちになりました。強い人に憧れていたので。

■相撲との出会い

 先生は相撲も教えられる人だったので簡易土俵を柔道の畳の上に敷いて四股を踏んだり、すり足をしたりするようになりました。中3の時に「3人1組の、相撲の団体戦に出ろ」って言われて出てみたら周囲は猛者だらけ。僕らは相撲のスキルがほとんど無いから柔道みたいに投げたり、引いたりして勝ち上がり、なんと関東大会優勝。人生で初めて大きな功績を残せた気がしました。あとの2人とは今も付き合いがあります。みんなユニークで、1人は総合格闘技RIZINの選手、もう1人は4カ国語を話す国際派カメラマン。補欠だった後輩はプロボディービルダーになりました。
 高校は、私立の柔道部から誘いがありましたが、天川先生の勧めもあり相撲部の強豪校である県立向の岡工業高校に進学しました。
 1年生からレギュラーになれ、結果を出し充実していました。地方の試合でも必ず母と妹2人が3人で旅行がてら応援に来てくれ、それも励みになりました。
 ただ、指をけがすることが多く、ピアノが弾けなくなるのは辛かったです。音大に行き、ピアニストに、ということも少し考えていたので。だからといって相撲をやめるのもせっかく結果が出ているのにあまりにももったいない。家族で話し合い、ピアノはいったんお休みしようということにしました。お休みといっても先生のレッスンを受けるのをやめただけで、X JAPANのYOSHIKIさんなど好きなアーティストの楽譜を買って弾くとか、そういうことは続けていました。YOSHIKIさんは天才ですよね。尊敬しています。
 ご飯もたくさん食べました。お弁当はご飯4合におかず。母は大変だったと思います。
 回転ずしも高校時代は50皿は普通に食べていました。最近は15皿くらいですね。今は立場上、いろいろな方と食事をする機会が多いです。立ち居振る舞いとか食事のマナーは幼いころ厳しくしつけられたので、それは本当に感謝しています。

■地元の応援を力に

 日体大を卒業した2017年の五月場所で初土俵を踏み、七月場所で序ノ口優勝。2019年三月場所で入幕し、スピード昇進といわれました。  
 地元の応援は力の源です。後援会には、家族で初詣に行っていた稲毛神社や、子どものころ遊んだ川崎大師などの思い出の場所や、大好きな〝追分まんじゅう〟の多摩川菓子店の方たちが入ってくれ、支えてくださっています。天川先生も後援会の役員をやってくださり、一生の恩師だと思っています。

■リハビリ中に出会った男の子に励まされ

 2019年の十一月場所(福岡)で右足を傷めました。切断寸前の大けがで医師からは「一生歩くことができない可能性もある」と言われました。
 けがをした後、「これを着けないと歩けないから」と足の装具を受け取った時はとてもショックでしたが、リハビリ中に出会った4歳くらいの男の子に勇気づけられました。その男の子は生まれつきの脳性まひで両手両足を装具なしでは生活できないのですが、とても明るい。その時、僕は25歳で片足だけ、その子は4歳で両手両足。相撲が好きで「お相撲さん、写真撮ってください」と言われた時に「この子に負けてるじゃないか」と思い、なんとしても関取に復帰しようと決心しました。
 2021年2月に障害者5級に認定され障害者手帳を交付されました。三月場所に復帰する少し前です。復帰直後の番付は序二段でしたが2023年1月末に十両昇進が決まり、再び関取になりました。今まで障害者に認定されたことを黙っていましたが、障害者手帳を持った僕が、屈強な男ばかりの、体に負荷がかかる相撲を続けている、工夫をして関取に復帰できた、ということを障害のある子や、その親御さんが知れば励みになると考え、公表することにしました。これからも右足がほとんど使えない状態でも頑張って関取になれた、ハンディがあっても工夫すればなんとかなる、ということを発信していきたいと思っています。 

プロフィール

本名 南友太。1994年12月2日、川崎区生まれ。市立宮前小、市立富士見中、県立向の岡工業高、日体大卒。2017年4月26日尾車部屋への入門。2022年2月7日、二所ノ関部屋に転籍。東十両十二枚目。184㌢173㌔

思い出話に思わず笑顔が