かわさきツナガリ
俳優・タレント 布川敏和さん
今回は、本号発行日の8月4日が誕生日の、元シブがき隊〝ふっくん〟こと布川敏和さん(川崎区出身)です。
■友人と自転車で遊び回っていた
小中学校の時の遊び場は、ほぼ大師公園ですね。釣りや、カスタマイズした自転車でプラプラ。
高学年(市立四谷小)の時は、クラスで野球をやっていましたよ。クラスメイトのお父さんが川崎球場で働いていた関係で、クラスでユニホームも作りました。当時、川崎球場は大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の本拠地。ユニホームのデザインも大洋ホエールズのものに似ていました。僕はセカンドの11番、シピン選手の役。
あんまり野球に詳しくなかったんですが、川崎球場にも友達とよく試合を見に行っていました。ナイターを見に行く時は、試合よりも夜に外出できる、ということで楽しかったなあ。
釣りといえば夏休みの朝、祖父が家まで僕を迎えに来てくれ、多摩川の河口でハゼ釣りをしました。祖母がさばいて天ぷらにして食べました。おいしかったけれど、その頃の多摩川って汚れていたので、そこのハゼを食べていたと思うと…。今の時代なら、食べてはいけない、と言われますよね。
いたずらばっかりしていて、勉強もしないし、いい子ではなかったですね。中学(市立南大師中)の時は、テストの点が悪かろうが関係ない、っていう感じでよく遊んでいました。テスト期間中は午前中で学校が終わるから、仲の良い友人と2人でうれしくてうれしくて。とにかくいつも2人で、自転車でプラプラ。今日はどこへ行こうか?と。
■友人と一緒に応募
中3の時にその中学校の友人がある日、家からカメラを持ってきて「ジャニーズJr.に応募したいから写真撮ってくれ」と。「敏和も送っておく?」と聞かれ、友人が一緒の封筒に入れて応募してくれたんですよ。そうしたら2人とも合格。そのうちテレビドラマ「2年B組仙八先生」のオーディションがあり、合格しました。隠しきれないからクラスメイトに言いましたけど。自分のこととはいえ、当時川崎の公立中学校の一生徒が金八先生の後番組のドラマに出ることになるってすごいことですよね。でもあんまり実感がなかったです。うれしいとかやりたいとかではなく、知らない世界でしたから。ただ、すごい世界にいっちゃった感じはありましたよ。
仙八先生が1年間放送され、ドラマ終了後すぐにシブがき隊としてデビュー。地元の友達は、この勢いをすごいって思ったんじゃないのかなあ? いきなりテレビに出始めるじゃない。俺なんかは流れでバーッといっちゃったからあんまり分かんなかったけど。
■夜中に幼なじみが遊びに来てくれた
最初は薬丸(裕英さん)、本木(雅弘さん)と3人で暮らしていました。洗濯などは、事務所の方たちが週に1回ずつ来て、やってくれていました。そのうち身の回りのことをしてくださるお手伝いの方と4人で住むようになりました。まだお手伝いの方がいない高校生ぐらいの頃かな、忙しすぎて少し精神的に行き詰ったこともありました。ほんとに夜中までビッチリ仕事が入っていましたから。当時のアイドルは、ロケの仕事もそんなになかったので、外に出るといっても写真を撮る時ぐらい。太陽が見られない生活でした。地元の友達は遊び回っているけれど、自分たちはプライベートで遊べない。ストレスが溜まっていたんでしょうね。買い物は、たまに原宿へ服買いに行くぐらい。竹下通りは歩けないですよ。
車の免許が取れる年齢になってから、夜中に地元の幼なじみが何人か、ちょくちょく遊びに来てくれましたね。その中の1人は、町内会も通っていた幼稚園(川崎さくら幼稚園)も一緒だった魚屋の息子。いまでもつながっています。
電車で実家に帰ることができなかったので、車の免許を取ってから、やっと川崎に帰れるようになりました。
■地元の友達と会う時は川崎で
ここ5年ぐらいは、ほぼ地元の友達としか遊ばなくなってしまったかも。それが楽なんですよね。何でも話せるし、気を使わなくていいし、隠したところで隠しきれないから。
ゴールデンウイークは三浦半島のほうでバーベキューをしました。忘年会、新年会は必ず川崎。旅の帰りの二次会は川崎の焼き肉屋。ちょくちょく川崎には行っています。
■多摩川と街がきれいになったのは出身者として誇り
ハゼ釣りをしていた子どもの頃と比べると、多摩川、きれいになりましたよね。アユが戻ってくる川になったんですから。短い期間できれいな川に戻したのは川崎が世界に誇れることですね。多摩川の水質改善への川崎市の取り組みは、出身者としてはとてもうれしい話です。街も本当にきれいになっちゃって。ラゾーナ(川崎プラザ)ができた時はびっくりしたもんね。すごくいい街に進化しているんだね。
川崎が便利で住みたい街になったんですよね。昔は、他の地域から来て川崎に住むっていうと、工場勤務の人以外あまり考えられなかったから。ベッドタウンになる、というのは当時では考えられないぐらい。確かに川崎は電車の便はいいし、どんどん素晴らしい街に変わってきたなあと思います。だから自信を持って「川崎出身です。育った場所は川崎大師の辺りです」と言えます。しかも〝川崎大師〟と言えば、全国の人に分かってもらえる。誇らしいですね。
■川崎で育ったからこそ、地球環境保護活動に興味
長年、地球環境保護活動に力を入れてきました。
実は僕は小さい頃、デパートのアマゾン展のようなものが好きでよく行っていました。大人になってからはアマゾンに関する本も読んでいました。熱帯魚ブームのときは、ナマズとかアロアナを飼っていて。
子どもが1、2歳のころ、近所に散歩に行って昆虫採りをしたり、花を見たりしているうちに、植物に興味が出始めて。自然環境に目を向けるようになりました。
「アマゾンの森林破壊がひどいことになっている、子どもや孫世代にこんな自然豊かな近所の公園がなくなると孫がかわいそうだなあ」と、そこから意識が芽生え、アマゾンを守る自然環境保護団体・ピララーラ基金の活動に参加しました。そこからいろんな出会いがあり、さまざまなエコ活動に参加してきました。
幼少期に〝公害の街〟といわれるど真ん中に住んでいたでしょ。虫もそんなにいない土地。夏休みに祖母の住んでいた山梨に行くと、山の中だから昆虫が何でもいる。川崎の子からしたら夢のまた夢。自然はすごいなあ、と思っていたけれど、片や川崎は当時公害がひどい。その極端さがあったからか、大人になって自然ってすごく大事だなあと感じるようになり、エコ活動を始められたのかなあと。「To.EARTH」というアパレル事業を2年間限定でやって、収益を寄付したこともありました。
■父親役として映画に出演
11月公開予定の映画、「神さま待って! お花が咲くから」に出演します。
小児がんの女の子の実話をもとに作られた作品です。小学校6年生までの闘病生活を映画化したもので、お父さん役をしました。その子は元気で明るくポジティブな子。たまにしか学校に行けないのですが、そこでも明るく。でも自分の病気と闘い続けます。本当にあった話だし、本当にお父さんが娘さんと接していた様子を映画の中で演じているから、普通のお芝居とは違う感情でやらせてもらいました。俺も子どもを育てた経験があるから、もしわが子が余命宣告されたどうなるんだろう、と親の気持ちを考えて、リアルな心情でお芝居もできました。台本を見て何回泣いたことか。でも大爆笑9割の、明るくポジティブな映画です。