東京新聞 TODAY

Cover Screen

かわさきツナガリ
EXILE 松本利夫さん

かわさきツナガリ  EXILE 松本利夫さん

メンバーとの出会いは高校の時のルフロンダンスコンテスト

川崎市内の学校に通った著名人、スポーツ選手らが、学生時代の思い出などを語る「かわさきツナガリ」。現在の自分につながっていく原点です。1回目は、昨年12月に川崎市市民文化大使に就任したEXILE MATSUこと松本利夫さん(高津区出身)です。

1975年、高津区出身。EXILEのパフォーマーとして2001年デビュー。2015年、パフォーマーを卒業。松本利夫ワンマンSHOW「MATSUぼっち」シリーズの公演を行うなど、舞台やドラマ、バラエティー番組でも活躍。自身のYouTube「MATSUぼっち IN THE HOUSE」で“川崎利夫”として川崎市の魅力を紹介している。

■中学校で体操部に入部。それがダンスにつながっていく

 子母口小学校(高津区)に通っていました。学校の前の公園を抜けた場所に駄菓子屋があり、毎日100円玉を持って友達と駄菓子屋に行くのが楽しみでした。糸を引っ張るとあめ玉が出てきて、ラムネが付いていると大きいのがもらえる、というもの。あんこ玉も大好きで。

 東橘中学校(同区)では体操部に入部しました。なぜ体操部に入ったかというとヒーローになりたかったんです。当時、戦隊ものがはやっていて。ヒーローはだいたいアクロバットをやるんですよね。それにあこがれて入ったのですが、足をけがして、2年で辞めました。でも、体操をやっていた経験が、のちにダンスにつながっていくんです。当時は、ダンスをやろうとは全然思わなかったですね。

 中3のときは〝帰宅部〟だったので、友達と遊ぶ経験がいっぱいできました。今でも中3時代の友達が多く、交流があります。

 高校生になってダンスに目覚めるんです。当時ダンスブームだったこともあり、単純にかっこいいな、もてたいなという動機で始めました。中2で部活を辞めて体を動かせなかった反動からか、ここにきて一気にのめり込んだのです。

 県立麻生高校(麻生区)の友達の中にはダンスをやっている人がいませんでした。しかも当時ダンスは不良がやっているというイメージがあったので、路上や公共の場で踊っていると注意されるのが当たり前の時代。1人でビデオを見ながら練習していたのですが、そのうち他校のダンス友達ができて、その友達と遊ぶようになりました。好きなもの同士が集まったときの熱量はすごく、学校が終わったら公園や閉店後のガラス張りの店舗の前に集まり、友達と練習する日々。今考えると経験を積んでいたんですね。とにかくダンスに目覚めてから、そっちばかり見ていましたね。

 高校生活も楽しく、文化祭で踊りました。そのことがきっかけで〝覚醒〟しました!

■川崎ルフロンのダンスコンテストでEXILEメンバーと出会う

 その高校時代、川崎ルフロンでダンスコンテストがあって、4回出場しました。3回目ぐらいにうっさん(ÜSAさん)と出会うんですよ、敵チームで。4回目出場時にはMAKIDAIが参加していました。

 コンテストでは、お互いライバルチームなので話していません。でも好きなことが一緒なので、好きな音楽が流れている、など行く場所も一緒。「(コンテストに)出てたよね。知ってるよ」となって話すようになり、別のところでも会うなどしているうちに仲間意識が芽生えて。そこで自然と仲良くなっていきました。まさかあの出会いから、EXILEメンバーとしてこんなに長く付き合うとは思ってもみませんでした。

■親の理解があったからこそ

 運よくこういうグループにいさせてもらっていますが、あの当時、ダンスで飯食える、ってごく一部の人だけでした。

 3兄弟の一番下で次男なので、親は「ダンスやりたいんだったらやってみなよ」みたいな、広い心で受け止めてくれていました。それが良かったんですよね。勉強して大学行って…、だったら、その夢はつかめていなかった。結果論で良かった、と言えますが、今考えると恐ろしいですよね。22、3までダンスだけやっていて、あとはバイトで生活していて。考えると恐ろしいんですけど、ほんとに好きなことだけを追求していった結果がこうなっています。

■夢を持つ力の大きさ

 自分は運が良かったのですが、ベタなんですけど、夢を持つ力っていうのはすごく大きいなと思います。それがかなう、かなわないは別として、夢を追い続ける中で成長していく、体験して感じる部分はいっぱいあるので。そこは人としての魅力も含めて、成長の一つにつながっていくんじゃないかなと。あとは続けることですかね。好きなことのある人は、それがあるだけで幸せなことなので。

 HIROさん(リーダーで所属事務所LDHJAPAN会長)が昔からよく言っている言葉が「勝つまでやり続ければ絶対負けない」。途中で辞めちゃうから負けたことになるけれど、やり続けている間は負けてない、結局勝つまでやり続ければいい。僕も大事な言葉として、常に心の中に持っています。

 あとはやりたいことを紙に書くといいと思うんです。宇宙に行きたい、とか不可能なことでも。紙に書くっていうのはとにかくいいことだな、と思いますね。

■川崎市市民文化大使に就任

 約1年前から「市民文化大使になる」と目標に掲げ、「YouTube」の企画としてスタートしたのですが、思っていた以上に早いスピードでなれました。自分の中ではなるつもりではいたんですけどね! もっと時間がかかるかな、もっと貢献が必要かなと感じていたので、ありがたいですね。   

 コンセプトも含め、ざっくばらんに楽しく見てもらい、川崎の魅力を体感してもらえるような番組にしたかったので、いい意味でフランクな状態を作りました。「川崎にこんな場所があるんだ、こんなおいしい食べ物屋さんがあるんだ」と楽しみながら川崎を感じてほしいな、と思ったので。チャンネル名も「川崎利夫」というキャッチーな名前にしました。

 見た人からの感想は「おもしろかった」「川崎にこんな場所あるんだ」というのもありましたが、「ほんとに市民文化大使になったね」が一番多かったです。最初から見ている人はふざけているように見えると思いますが、ふざけているように見せかけて本気でやっています。本気でふざけています! でもやっている内容は「魅力を発信しているよね」というふうに映っていると思うんですよ。

 市民文化大使の中では一番下っ端なので、やるからには長く続けさせていただけるように、誰もが「一番貢献したよね」と思えるように活動していきたいです。そういうのって、本能で感じていただけると思うんですよ。「あの人一番頑張っていたよね」って。

■そのためにはまず知ってもらうこと

 そのためにはまず、川崎市民の皆さまに、僕を知ってもらうことです。「初めまして。よろしくお願いします。僕も川崎が地元です!」ということを知ってもらうことが大事だな、と思っているので。年配の方や子どもや若い子は「なんだこのひげがはえたオッサン!」(笑)ぐらいなので、とりあえず「この人が市民文化大使になっているのね~」じゃないですけど、「EXILEってグループやってんだ~。その中にいた人なんだ」みたいに覚えてもらえるといいなと。

 そして「川崎利夫チャンネル」に登録してもらって(笑)。自分が発信することで、何かしら川崎市民や全国の皆さんに新しい情報をお届けできるよう、一歩一歩大事に歩んでいきたいな、と思います。多摩川スカイブリッジのような、世界に発信できるツールができ上がったのですから!

■半端ない川崎愛

 40歳を過ぎてから川崎愛をすごく感じるようになりました。でもこの年齢になってからですね。逆に川崎のことを知らな過ぎました。意外と、灯台下暗しじゃないですけど、自分の家からだいたい車で15分以上の場所って、実は意外と知らないじゃないですか。改めて、自分も体感し、楽しみながら川崎を知っていき、その魅力を発信していければいいなって思っています。

LDH事務所の壁の前で