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かわさきツナガリ
侍ジャパンU-12監督
井端弘和さん

かわさきツナガリ  侍ジャパンU-12監督  井端弘和さん

元プロ野球選手で、1月に侍ジャパンU-12の監督に就任した井端弘和さん。市内の学校に通った著名人に思い出を聞くコーナー「かわさきツナガリ」にご登場いただきました。井端さんは、7月29日から台湾・台南で行われる「第6回 WBSC U-12野球ワールドカップ」で初采配を振るう予定です。

1975年生まれ。川崎区出身。1997年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。遊撃手として、ベストナイン、ゴールデングラブ賞など複数年にわたり受賞。二塁手の荒木選手とともに「アライバ」として人気を博す。2014年巨人へ移籍。15年、現役引退。YouTube「イバTV~井端弘和公式チャンネル」はチャンネル登録者数 16.9万人。

■小学校の思い出は堆肥土作りの手伝い

 3年生までは東大島小学校(川崎区)に通い、4年生の時に川中島小学校(同)に転校しました。同じ町内で引っ越しただけなんですけれどね。転校は嫌でしたが、周囲が受け入れてくれ一週間くらいで慣れました。どちらの学校も楽しかったです。学校が終わるとこっそり家にカバンを置き、野球をしたり、外で遊んだりすることが多かったですね。

 教科は社会が好きでした。地理や歴史は今にいたる過程が分かるので、興味が湧きました。勉強というより趣味という感じで、今も歴史は好きです。体育も得意でしたが、体育館での授業はあまり楽しめず、外での授業の方が自分に向いていました。4年生までは先頭になって遊ぶ元気な子どもでした。授業では先頭に立てなかったけれど。

 5年生になると校庭で菊作りをしている理科の先生から、作業が大変だったのか、僕を含め3人くらいの男子が指名され堆肥作りを手伝うようになりました。リヤカーを引いたり、土をこしたり。「特別なことをしているんだ」という気持ちで喜んでやっていました。この作業が小学生の時の一番の思い出です。

■野球の練習は大好き。でも、ボールを失くすと…

  野球を始めたのは幼稚園の頃です。近所の高校生くらいのお兄さんが教えてくれ、1年生からは十数人が在籍する、地元の藤崎のチームに入りました。近所に勤務し、夜勤のある方が監督で、園芸関係の仕事をしている方がコーチ。指導者が時間に融通の利く仕事の方たちだったので、週に5日は練習がありました。入部当時の1年生は僕一人。ついていこうと必死でした。練習は遊び感覚で、とても楽しかったです。雨が降ったらショックみたいな感じ。唯一嫌だったのがボールを失くすとお尻をバットで思い切り叩かれる、フルスイングの〝ケツバット〟。今なら大問題ですよ。髪は丸刈り。監督がやってくれていたので、小学生のころ、散髪に行ったことないですね。野球をやっていれば丸刈りは当たり前だったし、自分だけでなかったので、それはなんとも思っていませんでした。

 野球には自信があり、自分は野球選手になれると思っていて、清原(和博)さんがPL学園から西武ライオンズに入団し、活躍されていたのを見て、自分も同じくらいにはなれるんじゃないかと思っていました。身長も170センチくらいあったので。

■中学から城南品川リトルリーグに入部

 川中島中学校に入学し、東大島小で一緒だった友達とも再会しました。部活は籍だけ陸上部に置いたまま、入学を機に、硬式野球の〝城南品川リトルリーグ〟に入部。東京ですが、六郷橋を渡ってすぐなので一番近く、自転車で行けるからと自分で選びました。

 当時の僕は投手で、ピッチングも打撃もある程度、自信がありました。が、130キロの速球を投げたり、プロ野球ができる広さの球場でさく越えするボールをバンバン打ったりするチームメイトや相手選手たちを見て、自分にはプロは難しいかなと。せめて甲子園には行きたいと、知り合いのいる横浜商業高校への入学を考えるようになりました。そのため、成績をある程度維持しなければと、要領よく授業のポイントを抑え、試験のヨミは良かったと思います。数学や英語はダメでも、他の教科でカバーしました。

■野村克也さんとの出会い

 中学2年の秋、城南品川と同じブロックで、当時日本一だった、野村克也さんが指導する港東ムースと当たりました。試合当日は学校の運動会だったので欠場したら24対0で負けていました。野村さんは僕のことを別の試合で見ていたそうで、後日、「なんで来なかった?」と怒られました。「じゃあ、今度行きます」と答えましたが、学校行事を休むなんて考えもしませんでした。

 中3の夏、港東戦で投げました。延長の末、2対1で負けましたが、自分たちは港東を一番苦しめたチームだと満足しました。その頃、野村さんから2度ほど「知り合いがいるので堀越高校に入ってみないか」と誘っていただきました。都内の高校なんて全く考えていませんでしたし、遠いとは思いましたが、堀越の場所や野球部を調べてみると甲子園に出場しているとわかった。3年間いたら一度くらいは甲子園に行けるのではないかと、入学を決めました。そして目標通り、2年の春と3年の夏に甲子園に出場しました。

■子どもたちへメッセージ

 僕は小学生のとき、プロ野球選手を目指しましたが、中学、高校で身長も大して伸びず、諦めてしまいました。大学時代、野球の指導者になろうと決め、やったことのないポジションの人に技術や心理などの話を聞くうちに、「じゃあ、ここはこうなのかな?」と実際の試合で生かすことができるようになっていきました。その結果、ドラフト会議で中日ドラゴンズに指名され、小学生のころの夢だったプロ野球選手になれたのです。

 自分をすごいと思っていたけれど全国を見たらそうでもなかったってことがあります。自分のやってきたことに満足することなく、上には上がいると思い努力を続けてほしい。スタイルを変えたり、頭を使ったり、うまく変化していくことが大事だと思います。満足はやめるときにすればいい。