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かわさきツナガリ
ピアニスト 小川典子さん

かわさきツナガリ  ピアニスト 小川典子さん

今回のかわさきツナガリにご登場くださったのは、ピアニストの小川典子さん。小川さんはイギリスと日本を行き来しながら演奏活動を続けています。ミューザ川崎シンフォニーホールのホールアドバイザーも務めています。川崎で過ごした子どものころを振りかえってもらいました。

■ライフワークにつながる出来事が

 古市場小学校(幸区)の卒業生です。最初は登校班で、慣れたら自分たちで通っていました。子どもの足で5、6分だったかな。6年間、楽しかったです。

 1年生の時に、今の私のライフワークである、障害などさまざまな理由でコンサートに来られない方を対象に開催している「ジェイミーのコンサート」につながるような出来事がありました。

クラスに特別支援が必要な子がいて、隣の席に座ることが多かったのです。当時、私は近視になりかかっていたので、その子に「なんて書いてあるの?」と黒板を読んでもらっていましたけれど。もう一人、外見で少し敬遠されがちな女の子もいたのですが、自分から声をかけて遠足で一緒にお弁当を食べたり、仲良くなって家にお邪魔し、お人形遊びや、シール交換をしたり。とにかくクラスメートが一人になってしまう、というのが耐えられなくて。

 これらの出会いや経験が福祉に興味を持たせたと思っています。

■男子にもはっきりと

 小学校時代はとにかく活発で、男子にも許せないことがあると、学級会で名指しで非難し、言い負かすまで積極的に発言する子でした。授業参観でもやっちゃったみたいで、帰宅後、母に𠮟られました。「そんなことするもんじゃない」って。

 2、3年生の頃だったかな、スカートめくりをする男子を放課後呼び出したことがあります。1対1になり、「何が面白いの?」って、自分からスカートをめくって見せました。ブルマーを履いていたのですが「おまえ、小川…」って真っ赤になって絶句し逃げて行っちゃいました。この話、先生はご存じないと思う。

 小学校を卒業して何十年もたってから当時の友人たちがリサイタルに来てくれたことがありました。うれしくてキャーキャー言っていたら男友達に「小川、相変わらずうるさいなぁ」って。

 こんな私ですが、最初は給食に慣れるのがとても大変でした。今でこそ、牛乳を飲む以外、なんでもいただきますが、小さい頃は偏食で、1年生の前半は夕飯の時に「牛乳が飲めない。給食が食べられない」って泣いていました。でも、慣れって怖いもので、だんだん給食が食べられるようになり、牛乳もなんとか一気飲みできるようになりました。好きなメニューは揚げパンでしたね。

 今も学校訪問で生徒さんと一緒に給食をいただく機会があります。事前に校長先生に「なんでも食べられますが、牛乳だけは勘弁してください」とお願いしています。

■ピアノのことはひけらかさず

 母がピアノ教師でした。食事中にピアノが聞こえると食べることを忘れ、演奏に熱中する子どもだったそうです。

 4歳から先生につき、小学1年生からは毎週土曜日、音楽教室にも通っていました。聴いた音を楽譜に記す聴音が得意で、どんな難しい曲でもどんどん聴き取れたので、土曜日がとても楽しみでした。静かな子が多い中、そこでも私はおしゃべりで活発。落ち着きのないところもあり、先生からは「ケアレスミスが惜しい」と注意されることもありました。当時から薄ぼんやりとピアノを本格的に練習し、プロを目指そうと考えていたと思います。

 学校では、1年生の時、担任の女性の先生がピアノ伴奏で困っていたので、代わりに弾いていたことがあります。「あの時は助けてくれたね」と今でも感謝してくださっています。

 いつでも、なんとなくピアノ伴奏=小川って雰囲気があり、学芸会でも〝合奏のピアノは小川〟って感じだったのですが、3年生の時、初めて演劇のグループに。セリフがたくさんある、〝黒蟻1〟を演じました。黒いセーターに黒いスカート、黒い帽子で。とても楽しくてうれしかった。当時、担任だった男性の先生に心から感謝しています。

 高学年になるに従い、ピアノの道に進もうとしていることを周囲に悟られてはいけない、ピアノをひけらかしてはいけないと勝手に思い込み、気を付けていました。

■多摩区に引っ越して

 中学は、家族で多摩区に引っ越したので、生田中学に通いました。

 音楽を本格的にやっている生徒が何人かいて、私がピアノのために学校を休んだり、体育の球技に消極的だったりすることを理解してくれました。多感な時期で自分の中に葛藤などはありましたが、ピアノを本格的にやっていることをもう隠さなくてもいいんだと、気分が晴れたことを覚えています。

 2年生の時には、父が高価なピアノを買ってくれ、「おまえにはもう何も買ってやらないぞ」と。それは本当で、私の家にとって、あのピアノは本当に大きな買い物でした。今も大切に使っています。

■卒業式後、音楽室で青春

 3年生のクラスは私にとって特別でした。みんな個性豊かで、とても仲が良く、合唱祭では結束して『モルダウ』を歌いました。卒業式の後、私たちのクラスだけみんなで音楽室に戻り、『モルダウ』を一緒に歌い、涙で別れました。青春でした。その時に録音したものを担任の先生はまだ持っていらっしゃるらしいんですよ。

 ついこの間、その先生から便箋12枚に渡る、すごい熱量のお手紙を頂いたので、コピーして何人かに渡しました。このメンバーとは、今でもLINEでやりとりしています。インターネットのおかげで、つながっていられるのはうれしいですね。 

 学校の勉強とピアノの両立、私にはできませんでした。中学生の頃、「本気で勉強したら、どのくらいの成績が取れるのだろう」と考えたことは何度かあります。

幸区出身。1987年リーズ国際ピアノコンクール入賞以来、世界の主要オーケストラ・指揮者と共演するほか、国際的なコンクールでの審査員など、多彩な活動を展開中。
7月31日(日)にはフェスタサマーミューザ KAWASAKIの公演がひかえている。

■小・中学生へメッセージ

 「好きで得意なこと見つけましょう」と言いたいです。

 私は、世界の大成功物語の主人公やスポーツ界の大スターが「頑張れば、夢は必ずかなう」と話す一節に、ずっと抵抗を感じてきました。本人が頑張るだけで夢がかなうのか、というと現実はそんな単純なものではない。御本人の強靭(きょうじん)な欲望と精神力、影にいる強力な協力者のチームワークによって成り立っている場合がほとんどです。ですから、世界のトップに「夢はかなう」と言われても、ぽつんとしている自分との隔たりは大きく、いろいろな局面で悔しい思いをたくさんしてきました。

 「好きで得意なこと」は、趣味でも本業でも何でも良く、難しい本業と大好きな趣味が乖離(かいり)していても素晴らしいことだと思います。

 宿題をきちんとやっていった翌日に授業が突然良く分かるようになった、ってことがありますよね。そんな経験を繰り返し、自分の中に溜めていくと、自分の好きなものや得意なものが少しずつ分かってくると思う。ひいては、生きがいのある人生になるし、手の届かない上ばかりを見て、ため息をつくことが少なくなると思います。好きなものが小さいころから一貫して存在する人もいるし、たくさんの習い事やイベントに参加して肌に合うものを見つけていくタイプの人もいると思います。一人でコツコツと何かを集めるのでも良いと思います。

 宿題をやった翌日の「授業がわーっと分かるようになった」、その経験と気づきを大切にしていくと、小さな一歩でも前に進む足掛かりになり、好きで得意なものが見つかっていくと思います。