東京新聞 TODAY

Cover Screen

かわさきツナガリ
歌手・俳優 ジェームス小野田さん

かわさきツナガリ  歌手・俳優 ジェームス小野田さん

今回は米米CLUBのメンバーで、奇抜な衣装やメークが印象的なジェームス小野田さん(中原区出身)です。ソロでは歌手以外に、舞台俳優や声優としても活動しています。※チケットプレゼントあり。詳細はこちら

1959年、中原区出身。米米CLUBの中心メンバーとして芸能活動を行う。本名の小野田安秀として、俳優や声優としても活動。「薗田憲一とデキシーキングス」とコラボして、来年1月12日(木)に渋谷区文化総合センター大和田伝承ホールで、2月10日(金)に横浜みなとみらいホール小ホールでコンサートを実施。

■生まれてからずっと川崎 

 生まれてから川崎に住み続けています。小さい頃はまだ自然が多かったですね。家の前のキャベツ畑で芋虫を取って遊んだり、ザリガニ釣りをしたり。おやじと川崎の北部のほうにノビル取りに行って、みそを付けて食べたり。居心地がいいですね。等々力陸上競技場辺りは自然も多い。私が育った時から川崎はずいぶん変わりました。実家近くの武蔵小杉も高層マンションが立ち並び、人が増えましたね。

■子どもの頃は恥ずかしがり屋

 幼稚園、小学校は大西学園(中原区)でした。恥ずかしがり屋で内弁慶で人見知り。人の目を見て話せなかったんですよ。でも「なんかやりたいぞ」というのを内に秘めた子だったのかもしれません。

 小さい頃から歌謡曲が好きでした。紅白歌合戦は毎年家族で見ていましたね。おやじがスウィングジャズが好きでレコードを集めていたので、よく聴いていました。

 今井中(中原区)では旅行研究会に入部。時刻表を一冊机の上において、「今日は2泊3日で北海道の旅のプランを考えます。旅行行程表ができたら提出して帰ってください」というような、かなり地味な活動でした。少しの間掛け持ちで、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていました。特に音楽の成績が良かったというのはなかったです。細かい図面を描くのが好きだったので、先生から工業高校への進学を勧められました。

■大久保さんとの出会いが今の原点

 川崎市立工業高校(現在の市立川崎総合科学高校)では建築の勉強をしていました。クラス替えがなかったので、大久保(リーダーのBONこと大久保謙作さん)とは3年間一緒。

 大久保がバンドをやっていて、練習をよく見に行っていました。高津市民館で演奏をする、というので見に行ったこともあります。インストゥルメンタルのバンドだったのに、声援のつもりで「大久保!」って言ってしまい、終わってから「やめてよ、恥ずかしい」と言われたことも。後で知ったのですが、その日に得能(ジョプリン得能さん)も一緒のライブに出ていたらしいです。すごい縁ですよね。

 ある時、大久保に「小野田歌ってみれば?」と言われて歌ったら「いいんじゃない?」という話になって。「俺歌っていいんだ」となりました。

 進路に迷っていた時、大久保に「文化学院(現在は閉校)って面白い学校があるから行かない?」と誘われて、一緒に進学。歌も文化学院も大久保が誘ってくれて。今思うと恩人ですね。

写真提供・ジェームス小野田さん 高校の頃

■米米CLUB誕生

 文化学院では、得能が石井(竜也さん)と音楽をやっていました。得能から石井を紹介され、みんなで「なんか面白いことやらない?」ということで盛り上がり、当時人気の洋楽バンド、トム・トム・クラブに影響されて「米米CLUB」という名前を作りました。

 名前だけできて、しばらく忘れているうちに卒業し、自分も仕事に就いて他のメンバーもばらばらになって。

 少し落ち着いた頃に石井から「米米CLUB、ってバンドでなんかやろう、って言ってたよね?」と大久保のところに連絡があり、「小野田、なんかやらないか?」と誘われました。その後に得能も入って盛り上がってきて。「じゃあメンバーをそろえて石井をボーカルで」ということになり、バンド活動を始めました。

 建設事務所で働きながら、趣味で週末にライブに出る生活。それを1年ぐらい続けていたら「面白いバンドがいる」と話題になり、レコード会社が十数社見に来てくれました。

 バブルで景気が上向きな時代。そんな時に「バンドやるので辞めます」と会社に話したら「何考えているの?」と笑われましたね。その後売れてよかったなと。

 「会社辞めて米米やる」っておやじに言ったら「いいね~」と言ってくれました。おやじも若い頃芸能界に入りたかったようです。母親は「大丈夫なの? そんなので。毎月お金入れてよ!」でした。

 みんなで手分けして声を掛けてくれたレコード会社に話を聞きにいき、最終的にソニーに決まりました。

■売れてからの10年は早かった

 米米CLUBは12年間活動して一度解散したんですが、売れてからの10年は早かったですね~。感覚としては20年ぐらい。相当濃かったんでしょうね。年間100本以上ツアーをやって。今考えればいい経験でしたね、今の土台を作ってくれたので。こんなに長くやるとは思わなかったですけど。

■デキシージャズバンドとコラボ

 大人数でやっていたバンドを解散した後に一人で何ができるだろうか、と自分で考え、その時から舞台やミュージカル、朗読劇などで幅広く活動しています。

 最近は昔ヒットした曲のカバーを歌うことに力を入れています。そのうちの一つとして、今年から「薗田憲一とデキシーキングス」とコラボし、昔の邦楽、洋楽をデキシージャズバージョンで歌うコンサートを行っています。

■弾き語りにも挑戦

 今まであまり楽器を演奏してきませんでしたが、5月から弾き語りにチャレンジしています。ギターを持っていけば一人でどこでもライブができますしね。まだ2曲半ぐらいしかマスターしていませんが、これから曲数を増やしていって、ライブで1曲ぐらい入れていきたいですね。六十の手習い、ですね。

 最近よく「声がいい」と言われるんです。こういう声に産んでくれた親に感謝ですね。

 米米CLUBは2006年に活動を再開しました。来年、コンサートツアーを行いますので楽しみにしていてくださいね!