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かわさきツナガリ
元プロ野球選手 パンチ佐藤さん

かわさきツナガリ  元プロ野球選手 パンチ佐藤さん

元プロ野球選手でタレントのパンチ佐藤さん。〝“元気配達人〟や川崎市民文化大使として活動中です。

本名 佐藤和弘。1964年生まれ。高津区出身。1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。1994年の引退後はタレント活動など。YouTube「ウノ山本とパンチ佐藤の今日もどこかでDYNAMITE!!」はチャンネル登録者約5700人。

■今も川崎に

 川崎で生まれ育ち、今も川崎に住んでいます。川、山、工場、おしゃれ、ハングリー、インターナショナル…いろいろな表情を持っているのが川崎の魅力です。毎朝、多摩川と等々力公園を散歩するのがルーティンです。

■楽しい通学路

 高津区の久末団地に住み、久末小学校に通っていました。通学は結構な距離でしたが、お寺の墓地を突っ切り和尚さんに怒られたり、ゾウムシを捕まえて筆箱に入れたり、秋になると柿を盗んだり。渋柿でしたけど。甘い柿は僕たちの手の届かない所になっていたみたいです。

 勉強は苦手で国語や算数の時は静かにしていましたが、勉強について両親から何かを言われることはありませんでした。体育、図工、音楽は得意でした。運動会ではヒーローです。当然、リレーの選手で、ごぼう抜きを見せたくて、アンカーの時は「バトンを落とせ。ビリで持ってきて」と思いながら前の選手を待っていました。騎馬戦でも帽子を取るというより、いつもからかってくる相手に向かって行ったので次の年から騎馬戦が無くなっちゃいました。 

■夢は川崎市の水道局勤め

 当時は日本が高度成長期でわっしょいわっしょいの時代。団地だから誰の家がカラーテレビを買った、車を買ったっていうのが分かってしまう。うちは親父がヘルニアで入退院を繰り返し、苦しい生活でした。

 いつも同じ服を着て、修学旅行でも黄ばんだ下着。サンタクロースのプレゼントも下着。コンプレックスでした。

 そんな中でおふくろは夕飯のみそ汁に豚肉や煮干しを入れて。栄養を考えてくれていたんじゃないかな。好き嫌いなく、残さず食べました。ただ、給料日前になるとお金がなくなってきて湯豆腐ばかり。3日間、湯豆腐が続き「こんなんご飯じゃねえよ」って言ったらおやじが「じゃあ食うな!」「食わねーよ」って。

 でも、その時、悟ったんです。ぐちぐち言って明日が変わるわけじゃない。明日も明後日もずっと同じ生活だって。野球を頑張って普通の生活を手に入れようと、川崎市の水道局に勤めたいと思うようになりました。公務員で安定しているし、軟式野球部が強く優勝もしていましたから。

■川崎球場を目指して

 野球は軟式野球経験者だったおやじに教えてもらいました。最初は団地の仲間と遊びながらやっていたのですが、5年生の時にチーム「市営久末団地子供会」が結成され、Bチーム5年生、Aチーム6年生。Bチームの方が強かったです。まあ、僕がすごかったからなんですけれど。

 僕は6年生でキャプテンになり、皆の意見を聞き、高津区の代表として夏休みに川崎球場で開催される大会に出場することを目標に掲げました。甲子園みたいなものです。周囲にも団地が多く、団地ごとにチームがあり、競っていました。子どもの多い時代でしたからね。

 練習メニューを決め練習を始めたのですが3日目くらいから誰も来なくなっちゃった。信じていたキャッチャーの小峰君とサードの所君も来なくなってしまい、あまりにもショックで2人に学校で猛烈に抗議しました。それを知った担任の松田先生は「根性」と黒板に書き、「先生の好きな言葉だ。英語で言うとガッツ。佐藤はガッツマン。ただ、今回はガッツが空回りした」と話してくれました。

 松田先生は岩手県出身。雪が降った日に「これから雪合戦をする。その分、明日から少し授業が長くなるけれど頑張れるな」とクラスで約束させ、授業をつぶして雪合戦を体験させてくれるすてきな大好きな先生でした。

 「根性」の一件以来、小峰、所、佐藤の〝鉄のトライアングル〟ができ、他のみんなも練習に来るようになりました。

 一度、試合の日がそろばん検定と重なった時がありました。みんな検定に行ってしまい、試合に来たのは鉄のトライアングル3人と1・2年生。1・2年生なんてもうグローブ着けて立っているだけ。総監督の親父がエースで4番だった僕に「お前が0点に抑えて、お前が打て」って。相手チームから「ワンマンチーム」の声が聞こえましたが燃えました。

 検定が終わった仲間が来てくれましたが、メンバーを変えずに試合を続け勝ちました。試合後、コーチから「野球の時はワンマンでいい。ただしユニフォームを脱いだらだめだぞ」と言われました。

 最終的に高津区の代表になり、目標だった川崎球場で試合をしました。決勝まで進み、井田つくし子供会に負け準優勝。悔しいというより、とても充実した夏休みでした。

6年生のときに高津区で優勝! 佐藤主将(左)と小峰君

■格好いいおじさん

 野球をしている時は勉強できるもできないも、金持ちも貧乏もない。つらいことを忘れさせてくれました。

 うちは共働きで学校から帰っても家に誰もいなくて切ない。めんこもベーゴマもないので、団地の前で素振り300回を毎日やりました。朝もランニングをしたり、キャッチボールをしたり。努力、というより好きでやっていました。

 両親はおもちゃは買ってくれないけれど、野球用品だけは買ってくれました。

 久末チームの練習は土日だけでした。久末の隣は横浜市の高田町。おやじが少年野球チームの「高田ファインズ」に頼み、月から金曜まで、僕も練習に参加させてもらえるようにしてくれました。試合にも出るようになり、高田で2試合、久本で2試合、一日4試合投げることもありました。

 弁当はおにぎりだけです。ある時、高田のコーチが奥さんお手製の豪華なお弁当を差し出し「調子が悪いからお弁当を交換してくれ。食べて帰らないと母ちゃんに怒られちゃう」なんて言うんです。「いいんですか。すげー」とおいしくいただき、その日はホームラン2本打ちました。自転車で帰る途中、「わざとだったんだ」と気づき、自分もこういう格好いいおじさんになりたいと思いました。

■初恋相手に告白

 中学は学区的には東橘なのですが、野球部が無いので西中原中に行くことになりました。学区外の中学に進学することは両親から口止めされていたので誰にも言えない。

 小学校卒業前、同じクラスだった初恋の相手に気持ちを伝えたくて、シャーペンとボールペンが1本になっている〝シャーボ〟を渡しながら告白しました。一緒の中学に進学すると思っている彼女は「中学に行ったら付き合いましょう」と言ってくれたのですが、女の子は大人ですね。「そういうことじゃないんだよ。ただ気持ちを伝えたかったんだ」という気持ちでした。翌日、彼女はシャーボをカチカチしていました。

 今、年に一度、松田先生を囲む会があり、彼女とも会います。やはりきちんとした女性で、自分の見る目は正しかったなと思っています。

■駄目な3年間

 西中原中は野球に限らずスポーツが盛んな学校でした。小学校のころよりずっともてて、お弁当のふたに女の子がおかずを入れてくれたり、交換日記をしたり。でも、野球に関しては、センスの良い選手が2人いて、とてもかなわないと努力もしなくなりました。勉強もさっぱり分からない。数学なんて人生で使わない、とか自分に都合よく解釈していました。

■夢がかなった時

 高校は東海大相模を希望しましたが武相高校に進学。その後、亜細亜大学を出て熊谷組に入りました。水道局ではありませんが、毎月きちんと給料が入り、試合に出ればファイトマネーがもらえる。この時点で僕の夢がかなったわけです。熊谷組時代にオールジャパンに選ばれ、翌年、ドラフト1位でオリックスに入団し、5年間プレーしました。プロ野球なんて子どものころは思ってもいませんでした。

 今はタレント活動、講演会などをやっています。プロ野球時代の合わなかった監督のことも講演会でネタにさせてもらっています。無駄な体験なんてありませんね。

 貧しい暮らしから這い上がり、ここまできました。川崎にいると心がぶれないし、調子に乗ることもない。これからも原点である川崎に住み続けます。

「東京新聞朝刊1976年8月12日」
「出場チームの戦力」の「市営久末」の紹介に、佐藤投手の記述が見られる。もちろん、打線の佐藤もパンチさんのこと。
🥎市営久末(高津支部・初出場)
 大黒柱は佐藤投手。長身から投げる速球、カーブの威力は小学生ばなれしており支部決勝戦でノーヒットノーランを記録。打線も好調で、佐藤、高萩の大物打者は打率も四割以上。どちらかが毎試合ホームランを打っている。守備面は三遊間を除くともろさはあるが、大きく崩れることはない。